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家族を喪った僕は、施設に入ることとなった。
姉のお腹の中にいた赤ちゃん(僕にとっては姪っ子だ)は、奇跡的に一命をとりとめたけれど、当分は入院が必要ということで、僕とは離れ離れになった。
家族の通夜の日に忽然と現れたヴァンパイアは、あれから毎日僕に会いに来る。
僕が来いと言ったからだ。
僕に毎日会いに来いと、言ったからだ。
彼はしずかな仕草で頷いた。
僕のご先祖様と、昔むかしに交わした約束を再現するように。
「きみの傍で、きみを見まもるよ」
と、誓った。
施設に入った僕の日課は、夕飯を食べてお風呂に入った後、物置になっている小部屋にこもって、窓を開けることだ。
待つこと数分で、そこからするりと黒い影が滑り込んでくる。
この部屋は三階に位置するのだけれど、彼にとってそれは障害にはならないようだった。
空を飛べるの? と尋ねたら、少しだけね、と答えて彼がほろりと笑った。
彼の笑顔はいつもさびしげだ。
眉間のあたりには常に払いきれない翳りがあって。
僕は彼の笑顔があまり好きではなかった。
夜に、頭からすっぽりとブランケットをかぶって、窓辺に彼と並んで座り、僕は彼の話に耳を傾ける。
彼はふるいふるい記憶を掘り起こすように、視線を中空へと流して。
歌うように言葉を紡ぐのだ。
僕のご先祖様との思い出を。
祖父や、そのまた祖父との思い出を。
けれど彼の語る物語はどれも、結末にはお別れが待っている。
だからヴァンパイアは話の途中で、ぼろりぼろりと涙をこぼしだす。
僕が彼の頭をよしよしと撫でると、彼はいつも僕の肩をぎゅっと抱き寄せてくるのだった。
さびしいの? と問えば、さびしくないよと返ってきた。
「いまはきみが居るから、さびしくないよ」
彼はそう言って、きれいな笑みを浮かべた。
しわの寄った眉間には、さびしい翳りが巣食ったままだった。
泣き虫なヴァンパイアとの夜の逢瀬は、一日も絶えることなく続いていた。
毎晩のように自室を抜け出して物置部屋で彼と会っていた僕だけど、そのことを施設の職員に叱られたことはなかった。
彼はひとの記憶に留まることができないから。
たとえ僕と彼が一緒に居るところを、職員や他の子どもたちが目撃したとしても、翌朝にはきれいさっぱりと忘れられてしまうのだ。
彼に関する記憶と一緒に、僕が夜に物置部屋に居たという事実もなかったことになっている。
不思議だなぁと僕が言うと、きみたち人間の脳は帳尻合わせをするからね、と彼は答えた。
「辻褄の合わないことがあると脳が混乱するから、あったものはなかったことに。その逆もまた然りだよ」
でも僕は、朝が来ても他の子たちみたいに彼のことを忘れたりはしていない。
それはなぜなのだろうか、と首を傾げると、
「きみが覚えていたいと思っているからだよ」
と彼が教えてくれた。
「僕が覚えていてほしいと思っていて、きみも僕を覚えていたいと思っているから、僕たちの記憶はほんの少しだけ繋がることができているんだ。でもきみは人間だから。こうして毎晩会わないと、きっとあっという間に僕のことを忘れてしまうよ」
変なの、と僕は呟いた。
変なの。いまはこんなにもくっきりと彼の姿を焼き付けることができているのに。
たった数日でそれが消えてしまうなんて、信じられなかった。
僕の気持ちが伝わったのか、彼はいつものさびしげな微笑をほろりと唇の端に浮かべた。
「なんにもおかしくはないんだよ。きみたち人間の脳は優秀だ。忘れることができるんだからね」
あんたは忘れないの? と僕はヴァンパイアに問いかけた。
黒い瞳を瞬かせて、彼はこくりと頷いた。
冷たいてのひらで、僕の頬を包んで。
「きみのこの肌のぬくもりも、その声も、目や唇のかたちも……僕はぜんぶ、覚えているよ」
まるで、愛の言葉を囁くように、しずかに。
甘く。
哀しくて愛しい音で、彼は言った。
僕も忘れないよ、と答えたかった。
僕も、あんたのことは忘れないよ、と。
言ってあげたかった。
でもそんな夢物語のようなことは口にできなくて。
言葉の代わりに僕は、なにひとつ忘れることはないというヴァンパイアの、冷たいひたいにコツンとおでこを合わせて。
また泣き出しそうになっている、泣き虫な化け物を抱きしめた。
なるべく覚えていてあげる。
僕がそう言ったら、彼はさびしい笑顔になって。
「それでいいよ」
と答えた。
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