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砂浜に立てた小枝のように、平穏な日々が不意の傾きを見せたのは、ある日のことだった。
てっきり単なる仕事疲れだと思っていた微熱と倦怠感が、重篤な病だと指摘されたのは、会社の健康診断の結果を受け取ったときのことだ。
俄かには信じがたくて、大きな病院を数か所巡った。
その結果得たものと言えば、どの病院からも僕のいのちの刻限を告げる言葉だけだった。
なるほど、僕は到底たすかる見込みのない病に侵されているのだ、と病気をなんとか受け入れることができた僕の脳裏に真っ先に浮かんできたのは、姉の忘れ形見の姪っ子ではなくて、あの、泣き虫なヴァンパイアの顔だった。
眉間にさびしさを刻んだ、どうしようもない笑顔を見せる、うつくしい彼の顔だった。
嗚呼、と僕は絶望に目の前が暗くなってしまう。
嗚呼神さま。
僕は、あのかなしい生き物に、僕のいのちまで背負わせたくはありません。
何百年も前のご先祖様たちとの記憶を掘り起こしてはボロボロと涙を流すような、あの泣き虫のヴァンパイアに。
さらなるいのちを背負わせたくはありません。
どうすればいいのだろうか。
僕は、僕の寿命のことを考えなければならないときがくることを、覚悟していたけれど。
でもそれはまだずっと先の話だと思っていたから。
答えが見つからずにただ茫然と、途方に暮れて……それから考えて考えて考えて。
考えて考えて考えて。
ようやく、ひとつの結末に、行きついた。
考え抜いたその未来を現実のものにする前に、どうしてもしておきたいことがあった。
僕は夜にいつものように窓辺で彼を待った。
ガラスをノックする白い手。それを合図に窓を開けると、闇から溶け出すかのように黒い影が部屋へと入ってくる。
うつくしい彼がいつも黒い服を身に着けているのは、闇夜に紛れたいからではなくて、喪服の代わりだと知っている。
彼は年がら年中、自分より先に散っていったいのちを想い、喪に服しているのだ。
まるで呪いのようだと僕は思った。
ご先祖様の呪いが、彼をこうも縛り付けている。
冷えた手が僕の手を握った。いつものように、やわらかなちからで。
家族を喪って泣いてた頃と、同じように。さびしさを慰めるかのように、あるいは、なめ合うかのように、彼がぴたりと僕に寄り添う。
僕はしばらく、左肩にかかる重みと彼の香りを堪能した。
今日が彼と過ごす最後の日だ。
その事実を噛みしめて。
僕は、こっそりと……ポケットに隠し持っていたカッターの刃を、指先に、当てた。
ぷつり、と肌が破れる感覚があった。
痛みはそれほどでもなくて、血が出たかどうかも僕にはよくわからなかったのだけれど。
その瞬間、彼の目の色が変わったのが、わかった。
僕の血の匂いを嗅ぎ付けたヴァンパイアが。
血よりも濃い赤色に変色した瞳を、僕へと向けてきて。
口を、大きく開いた。
鋭い牙が見えた。
普段、彼の歯はこんなに尖っていない。僕と会話をしているとき、ワインを舐めるように飲んでいるとき、唇を割って垣間見える白い歯は、人間とさほど変わらなかったのに。
いまは獰猛に尖っているそれを見て、どんな構造になっているんだろうか、と暢気な感想を抱く僕の目の前に、彼の顔が迫ってきて……。
ヴァンパイアの牙が。
僕の首筋の血管に、つぷりと埋まるのを感じた。
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