泣き虫でやさしい僕のヴァンパイアへ

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******  僕の血で酩酊(めいてい)した彼と。  彼の牙に陶然となった僕は。  二人抱き合い、体を重ねた。  彼の、ひんやりとなめらかな肌の手触り。  吐息の湿り気。  僕に触れる、指、髪、唇、舌の感触。  鼓膜を揺らす、声。  彼のすべてを、僕は僕に刻み付けた。  忘れたくない。  覚えていたい。  泣き虫でやさしい、僕のヴァンパイアのことを。  でも僕のいのちを背負わせたくない。  なにひとつ、彼には背負わせたくない。  失くしてきたすべてのものを想って泣き続ける彼を。  僕はもう解放してあげたかった。  僕の首筋を噛んだとき、血を吸い上げた彼の頬にはいつもより赤みが宿っていて。 「久しぶりの血で酔ってしまった」  と言って、うつくしい顔でほろりと笑っていたけれど。  泥酔した人間のように、酔ったら記憶を失くすということがあるのだろうか? (きみのこの肌のぬくもりも、その声も、目や唇のかたちも……僕はぜんぶ、覚えているよ)   かつてそう言った彼は。  いま、この瞬間のことも忘れることはないのだろうか。  互いの体の熱も、汗の匂いも、涙の味も……彼の記憶は、ひとつも取りこぼすことなく記憶し続けるのだろうか。  忘れてほしい。  忘れないでほしい。  二つの想いが僕の中で綱引きをしている。  彼と肌を合わせている最中、僕の目からはずっと涙がボロボロと零れていた。  これじゃあまるでヴァンパイアみたいだ。  泣き虫でやさしくていとしい、僕のヴァンパイアみたいだ。  僕があんまり泣くから、ついには彼にまで、 「今日は泣き虫だね」   と言われてしまった。  冷たい指先に涙を拭われて、僕は笑った。  たぶん、ふだんの彼と同じ、眉間にしわを作る笑顔になったのではないかと思う。  そんな顔をしないで、と彼は言ったけれど。  それを言いたいのは僕のほうだった。  二人で居るときに。  そんなにさびしそうに笑わないでほしい。  ほろりと笑んだ彼の眉間を、僕は親指でぐりぐりとこすった。  神さまどうか僕の決断が。  彼のさびしさの海を、これ以上溢れさせることがありませんように。  人外の化け物と抱き合いながら僕は、神さまに祈りを捧げた。  やがて涙を止めた僕は、彼を拒絶する言葉を喉の奥から吐き出した。  繋いでいた体を離して。  まだ仄かに赤い頬をした彼を、突き飛ばして。  もう二度と僕たちの前に現れるな、この化け物、と……。  始めからあんたが化け物だと知っていたけど、実際に血を吸われて恐ろしくなった。  体を繋げたのだって僕の意思じゃない。あんたが僕を操ったんだ。  二度と顔も見たくない。  あんたが傍に居たら僕も姪っ子も呪われる。  金輪際、僕たちに関わらないでくれ。  ご先祖様との約束なんか知らない。いま僕に誓え。  僕や姪っ子にこの先子どもができたとしても、もう絶対に、二度と関わったりはしないと僕に誓え。  未来永劫、二度と。  二度と僕たちに関わらないと誓え。  あんたは化け物だから、動物の血を吸ってひとり生きていくのが似合いだ。  誰にも関わらずにひとりで生きろ。  ひとりきりで、生きてゆけ。  僕は思いつく限りの罵詈雑言を、彼へとぶつけた。  彼は早口にしゃべる僕の言葉を、最後まで黙って聞いていた。  彼の頬はいつもの白さを取り戻していて。  彼が吸い上げた僕の血は、どこへ行ってしまったのだろうかと考えた。  もう消えてしまったのだろうか。  彼の中から。  僕の血は。  ぼんやりと彼を見つめる僕へ。  彼の黒い瞳が向けられている。  彼は泣いてはいなかった。  ふだん、あんなにボロボロと泣くくせに。  静かな眼差しで僕を見て、ただ小さく頷いただけだった。  さよならの言葉もなく、彼が窓から出てゆく。  黒い服が、闇夜に溶けた。  それが完全に見えなくなってからも、僕はしばらく窓辺から動くことができなかった。  彼と別れてから、僕は荷造りをした。  ベッドの上で彼と体を重ねていたとき、あんなに泣いたからもう涙は残ってないと思ったのに。  ひとりになると寒くてさびしくて、涙が勝手溢れてきた。  滲んだ視界の中僕は、やけくそのようにバッグに衣類を詰めていった。  彼は気づかなかっただろうけど、家具が残っているのはこの部屋だけだ。  あとはすべて処分した。  姪っ子はひと足先に引っ越している。彼女は施設に入ることが決まっていた。この先、僕が面倒を見ることができないから。  朝になったら僕は病院へ向かう。  そこが僕の、最期の居場所となるところだ。  この部屋の残りの家具も、明日になったら業者が片付けてくれる。  毎晩彼を迎え入れていた窓と。  彼と寝た、ベッド。  それらをスマホのカメラで写した。  本当は彼の写真も欲しかったけど、彼は写真にすら姿を留めておくことのできない化け物だから。  僕はノートを広げて、まだ彼の記憶が鮮明であるいまの内に、必死に彼の姿をスケッチした。  描いている内にまた泣けてきた。  彼の目は、こんな形じゃない。鼻も唇も違う。こんなのは彼じゃない。僕の絵は彼に全然近づいてくれない。  忘れたくない。  忘れたくない。  忘れたくない。  僕の泣き虫なヴァンパイアのことを。  なにひとつ忘れたくない。  僕は泣きながらずっと、朝が来るまでシャーペンを動かし続けた。  
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