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あなたへ
名前も知らない相手に手紙を書いている私を、家族はきっと、奇妙に思っていることでしょう。
もしかしたら、いよいよボケたのかと内緒話をされているかもしれませんね。
でもそれも仕方ないわ。先月ひ孫も生まれた、もうよぼよぼのおばあちゃんになってしまったんですもの。
今日筆をとったのは、箪笥から懐かしいものが出てきたからなのです。
私の兄が撮った、窓とベッドの写真が。
お兄ちゃん、と私は彼をそう呼んでいたけれど、正しい続柄は叔父にあたります。私の母の弟であった彼は、若くして亡くなってしまった。
兄は病床にずっと、この写真と一枚の絵を飾っていました。
とてもうつくしい男のひとの絵を、あなたにも見せてあげたかったけれど、あれは兄の柩に入れて一緒に焼いてもらったからもう手元にはのこっていないの。
あなたがあの絵を見たら、きっと驚くと思います。
でも、絵のことを記す前に、少し私の昔話を綴ってもいいかしら。
私は生まれたときから、少し特別な子どもでした。
というのも、私には胎児の頃の記憶があるからです。これを言うとみんな首を傾げるけれど、本当のことなのです。
父の運転する車で、母が祖父母とともに事故に遭った時の、母の声や恐怖の感情が私の中にしっかりと残っているのです。
私は母がお腹をかばってくれたおかげで無事に生まれることができましたが、その後も生死の境を何度も彷徨いました。
病院の先生や看護師さん、そして毎日お見舞いに来てくれる兄の献身を得て、私は成長することができました。
私が胎児だった頃の話をしても、単なる夢だろうと、誰も真剣には取りあってはくれません。
信じてもらえない、という経験を重ねる内にいつしか私は、そのことを誰かに打ち明けることをやめました。
なぜこんなことを記すのかといえば、私の脳が特別なものであることを、あなたに知ってもらうためです。
私は、胎児の頃だけでなく……おそらく、生まれてから見聞きしたほとんどすべてのことを、記憶することができているのです。
そう、あなたのことも。
兄と十年にも満たない期間を過ごしたあの家で。
私は、とても美しい光景を幾度となく目にしました。
月明かりの差し込む窓辺で、頭から毛布を被っている兄と。
兄に寄り添う、真黒な服を着た……夜の闇に溶けそうな、きれいなきれいなヴァンパイアを。
まるで二人でひとつの生き物かのようにぴたりとくっついて、小声でポツポツと言葉を交わすあなたたちの姿を、私はいつも、ドアの隙間からそうっと見ていたわ。
あの頃の私はやさしい兄が大好きだったから、嫉妬がなかったといったら嘘になる。
でも、毎晩のようにあなたが来てくれたから、兄は……きっと、孤独の海に溺れることがなかったのでしょう。
僕の、ヴァンパイア。
兄が一度だけ、私の前でそうあなたを呼んだことがありましたね。
あなたが三度目に私と一緒に食卓を囲んでくれたときだったでしょうか。
翌朝には私の中からあなたの記憶が消えると思っていたから、兄も気が緩んだのでしょう。
たった一度だけ、そう呼んでいました。
その声がいまも耳に残っています。
あなたがひとならざる者であることは、ひと目見たときから気づいていました。だから兄があなたをヴァンパイアと言ったとき、私は妙に納得したものです。
ああ、あなたはヴァンパイアなのだ、と。
余談ですが、忘れたふりをする、というのもなかなか大変だったのですよ。
兄はいつも昨晩のことなどなにもなかったかのように振舞っていたし、私が昨夜のことを話題にしようとすると途端に顔をこわばらせていたので、ああこれはなかったことにするのが良いのだと、子どもながらに私も察することができました。
ともかくあなたは、私の中でも兄のヴァンパイアでした。
兄だけの、唯一のヴァンパイアでした。
そのあなたに、届くあてもないお礼と、お願いがあります。
まずはこの言葉を。
兄と出会ってくれて、ありがとうございました。
兄はあなたと別れた後、病床に着きました。
病院のベッドの上で彼が最初にしたことは、描きかけの絵を完成させることでした。
ノートに何枚も何枚も描かれた、男のひとの絵を、画用紙に描き写して。
違う、違う、こんなんじゃない、と泣きながら。
忘れたくない、忘れたくないと泣きながら。
それでも鉛筆を動かし、なんとかして彼の中のヴァンパイアの顔を、描き残そうとしていました。
けれど花びらを一枚ずつはがしてゆくように、兄の中からあなたが消えてゆくのがわかった。
忘れたくない、と泣く兄は。一日ごとにあなたを忘却していったのです。
でも彼は描くことをやめませんでした。
もはや誰の絵なのかすらを忘れても。
彼はずっと、あなたの姿を追い求めていました。
私は見ていられずに、兄の横に座り、ひとつひとつ、私の記憶にあるものを兄へと伝えていきました。
目は、もっと切れ長で、黒くて、豊かなまつ毛に覆われていて。
目じりは筆ではいたように、少し、吊り上がっていて。
唇はもっと薄くて。
髪はもっと艶やかで。
笑顔は……笑顔は……。
笑顔は、さびしくて、さびしくて、さびしくて……。
眉間に少しのしわをきざんで、ほろりと、さびしく笑う絵の中のあなたを見て、兄は首を振りました。
こんなにさびしそうに笑ったら、かわいそうだ。
そう言って、兄は、笑顔のヴァンパイアだけを何枚も何枚も描いていったのです。
描くそばから記憶が薄れてしまうから、私は何度も何度も兄にあなたの容貌を伝えました。
そしてようやく完成した絵を見て。
兄は、笑いました。
絵の中のあなたと、同じ表情で。
とてもしあわせそうに、笑いました。
あなたがヴァンパイアで良かった。
ひとの記憶に留まれないようなヴァンパイアで良かった。
きっと、あなたを覚えていたままだったなら、兄はあんなに穏やかな死に顔にはならなかったでしょう。
棄ててしまったあなたを想い、あなたに会いたいという葛藤の中で、苦しんで死ぬことになったのではないかと思います。
あなたを忘れたからこそ、兄は。
しあわせな笑顔のあなたを抱いて、安らかな眠りにつくことができたのです。
ここからは私の想像ですが、兄がなぜあなたと離れたのか、少しだけ語らせてください。
兄は自分の命を、あなたに背負わせたくなかったのでしょう。
子どもだった私は、兄とあなたの会話を、行儀悪くも盗み聞きしていました。
だからあなたが私の祖先と交わした約束のことも、知っています。
おそらく私のご先祖様は、あなたをひとりぼっちにしないことで、あなたを救おうとした。
そして兄は逆に、あなたをひとりにすることで、あなたを守ろうとしたのです。
いくつもの別れを重ねてきたあなたに。
これ以上の別れを味合わせないために。
だって、あんなにも……あなたたちは、二人でひとつのように、ほとんど溶け合うようにして毎晩寄り添っていたのに。
そのあなたをもぎ離してまでも兄は、あなたの心を守りたかったのです。
喪失の苦しみを失くすためには、その機会そのものを奪う方が良いだろうと考え、あなたを突き放したのだと思います。
多分、兄はあなたにひどい言葉をぶつけたのでしょう。
兄の真意も、当時交わしたやり取りも、もはや知るすべはありませんが、兄に代わって謝りたいと思います。
本当に申し訳ありませんでした。
勝手な言い分ですが、でも兄はあなたが居てくれてしあわせだった。
兄はきっと、最後の瞬間まであなたを愛していた。
兄の遺体と一緒に燃やしたあの絵には、裏に、兄のつけたタイトルが書かれていました。
『泣き虫でやさしい僕のヴァンパイアへ』
いつ書かれたものなのか、私にもわかりません。
おそらく、あなたと別れた直後に描いたノートの隅にでも記した言葉を、拾い上げたのでしょう。
願わくばあなたが、兄の絵のような微笑みを湛えて、しあわせの中を生きることができていますように。
そしていつか、この手紙があなたの目に触れる奇跡がおきたならばその時は。
どうぞ、ひどい言葉をぶつけた兄を、ゆるしてやってください。
私からの感謝とお願いは、以上です。
この宛先のない手紙は、封をして大事にしまっておきますね。
悠久の時間を生きる、あなたへ。
僕のヴァンパイア、とあなたを呼ぶ者の家族より。
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