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兄は僕を強欲だと言いたかったみたいだけど、僕はただ、兄と二人で、将来に何の憂いもなく、静かに暮らしたいだけだ。それはささやかな願いではないのか? 四十歳になったら隠居して、兄と二人で遠くに移住したい。僕達が手を繋いで歩いても、誰も何も言わない土地へ。それが今回、兄をわざわざこの東京に呼び出してまで言いたかったことだったのに、肝心のことを言えなかった。……言わせてもらえなかった。
脱力しきってふにゃふにゃな兄の手を、僕は握った。兄は握り返してこない。
僕がわがままを言ってきかないから、しぶしぶ応じただけの番の契りなのだろうなと思う。本当に契りは結ばれたのだろうか。兄がしぶしぶでも嫌々でも、僕達は……僕は、正しい手順を踏んだけど。
僕の掌の下で、兄の掌がぴくりと一度、痙攣した。ゆっくりと、一本ずつ、兄の指が僕の手を握り込んでいく。手を繋いだまま、兄はこちらに向かって寝返りを打った。首に貼られたガーゼがシーツに押し付けられて見えなくなった。身体が横向きに安定すると、兄はふーっと長い息を吐いた。兄はまだ目を閉じている。昔と変わらず、長い睫毛が瞼を縁取っている。けれど、眉間には深い皺が刻まれ、頬は少し痩けて、鼻筋は鋭さを増した。十年前にはまだ残っていたあどけなさは、もうすっかり喪われていた。ただの大人の男だ。決して、女の子の代用品ではない。元々の僕の性的指向からして、兄は僕の相手には向かないはずの人だった。なのに僕の心は、相変わらず兄を欲し続けている。
ほんの一瞬、僕が目を臥せている隙に、兄は目覚めて、シーツに横たわったまま僕をじっと見上げていた。まるで、生まれたてのヒヨコが親鳥の姿を記憶しようとしている時のような、無垢で熱心な瞳だった。
「お兄さん」
僕と兄の左手はまだ繋がれていた。ぎゅっと握ると、兄もぎゅっと握り返してきた。
「なに?」
「お兄さんは、僕の番ですよね?」
兄はそれがどうした? と言いたげな顔で首を少し傾げると、少し目を見開き、すぐに細め、そしてくっくっと喉を鳴らした。兄の右手が僕の方に伸びてきて、兄の親指が僕の下瞼の縁をなぞった。
「また泣くんかお前は。ひっでぇ顔だし。目が数字の3みたいになってら」
目が数字の3! それは酷い。だけど堰を切ったように溢れた涙は、あとからあとから流れ出してきて、止めることができなかった。
「だってお兄さん、僕がわがまま言うから嫌々番になってくれたのかって思って。お兄さん、僕の番になるの嫌じゃないですか?」
「嫌じゃねぇよ。兄ちゃんはお前の番だよ」
だから泣くなって言われたら余計に泣けてきて、僕は兄にしがみつき、声を上げて泣いた。
(おわり)
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