「ありがとう」

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「ありがとう」 たったの5文字。 だけどこの5文字が言えなくて、俺は大事な人を失ってしまった。 俺の恋人は「ごめん」と「ありがとう」がちゃんと言える人だった。 それに比べて俺は「好き」「愛してる」さえも満足に言えなかった。 いやそれ以前にここ最近仕事が忙しい事を言い訳にして、まともな会話もしなくなっていたかもしれない。 それでもあいつはどんな時でも笑って俺の事を見ていてくれてたっけ。 ***** 「ねぇ尚之(なおゆき)、今度の僕の誕生日行ってみたい所があるんだけど―――――大丈夫?」 『行こう』でもなく『大丈夫?』とあいつは問うた。 決して押しつけがましくなく、常に俺の予定を優先してくれた。 今回もそうだと思っていた。 だから甘えてしまっていたんだ。あいつの優しさに。 俺はいつものようにおざなりに返事をした。 もしダメになったとしても大丈夫。 あいつはいつだって何だって許してくれる。なんて、自分勝手な事を思いながら。 「ああ」 「やった!じゃあ朝から行こうね。約束だよ?」 そう言って小指を出して笑った。 あいつがその時何を考えているのかも気づかずに絡められた小指。 ――――この約束は俺にとって何の意味もなかった。 ***** 俺はあいつの誕生日、約束の場所へと行かなかった。いや、行けなかったんだ。 急な仕事が入り連絡を入れる時間すらなかった。 ――――今更こんな言い訳なんて何の意味もない。 正直に言うとあいつへの連絡なんて頭の隅にもなかった。 だから仕事が落ち着いた頃あいつからかかってきた電話で初めてあいつとの約束を思い出したんだ。 電話の向こうのあいつも特に普段と変わりがなく、俺の事を責め立てる事もしなかった。 だから俺も「ごめん」の一言もいわず、「仕事だったんだ。仕方がないだろう?」そんな事しか言えなかった。 そうしてあいつはそのまま俺の前から姿を消した。 あの時「ごめん」その一言が言えていたならあいつは今も俺の傍で笑っていてくれただろうか。 失ってみて初めてあいつの大切さを知った。自分の愚かさを知った。 あいつがいなくなって、あいつはいつも俺が生活しやすいように先回りして色々やってくれていたと分かった。 そんな事にも気づきもせずに全てがうまくいくのは自分が優秀だからだと思っていた。 日常の細々とした事全てあいつが俺の為に頑張ってくれていたから、だから俺は仕事だけに集中できたというのに、俺はそれに気づけなかった。いや気づこうともしなかった。 あいつがいなくなってできてしまった心の穴は思いのほか大きくて、生きる気力すら失っていきそうだった。 だけど仕事をしないと生きてはいけないわけで、俺は以前にも増して働くだけのお仕事マシーンになっていた。 薄汚れていく部屋。ゴミはたまり服もどことなくヨレヨレとしている。 片づけないといけないとは思うが、どうしても身体がいうことをきかなかった。 それでも必ず朝はやってくるので、朝起きて何かを口にいれて会社へ行き無心で働いて、夜遅く家に帰って死んだように寝る。 そんな虚無な時間を繰り返し、どれくらい過ぎた頃だろうか偶然街であいつをみかけた。 少しだけふっくらとしたあいつは優しそうな男と腕を組み、笑い合っていた。 記憶に残る一番幸せだった頃のあいつの笑顔と同じ笑顔。 あぁ、もうあいつは俺の所へは二度と戻る事はない。 その事実に悲しくないわけではないが、それよりもなによりもあいつが笑っていてくれてよかったってそう思ったんだ。 涙があとからあとから溢れ出て、零れた。 あいつがいなくなって初めて零す涙だった。 本当にあいつの事が好きだった。 好きだったからこそ言えなかった。 恥ずかしかったんだ。 別に恥ずかしがる事なんてひとつもありはしないのに、言わなきゃって思えば思うほど喉が詰まって言えなかった。 口を開き出てくる言葉はいつも憎まれ口だけ。 そのうちに仕事が忙しくなってそれさえも面倒になってきて、あいつとまともに会話をしたのがいつだったのかさえ思い出せない。 我ながら最低なヤツだ。 あんなに優しかったあいつが愛想つかすのも当然の話だ。 「ごめん…。今までありがとう……」 今まで言えなかった分の想いを込めてそう呟く。 あいつには聞こえるはずもない呟き。 なのに遠くにいて絶対に聞こえたはずがないあいつが振り返り、俺と目が合った。 途端に瞳は見開かれ、数度瞬いた。 あいつはあの頃の笑顔で微笑み、唇が大きくゆっくりと動いた。 『愛・し・て・。あ・り・が・と・う。さ・よ・う・な・ら』 「俺も…俺も愛していたよ。ありがとう。さようなら」 やっと言えた。 ずっと心に重くのしかかっていた言葉たち。 たとえあいつとは二度と交わる事がない道を歩いていくとしても、これで俺は後ろを振り向く事なく前に進んでいける。 長く続いた雨が上がり、俺の心は晴れ渡る青空のようにすっきりとしていた。 「まずは部屋を片付けるところから始めよう」 -終-
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