水葬

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「絶対に、言うべきじゃない。それはさ、わかってるんだ」  那緒が、最後にそう呟いてから黙り込んだ。  なんとなく、そんな気がしていたんだ。最近の、翔と話す時の那緒の声音が、そんな感じだったから。  別に、同性同士をとやかく言うつもりはない。ナンセンスだし、時代遅れだし。男女の恋よりも刺激的だとすら思う。好きならいいじゃんって、まあ、その程度。ただ、幼い頃から一緒に過ごした那緒が、という驚きが大きかった。  でも、そうか。翔か。大人しくて、那緒ほど博愛的ではないにしても優しくて、人と関わることに少しだけ怯える、あの翔か。那緒だったら絶対に放っておかないタイプの人間だろうとは、前々から思っていたんだ。  那緒が、小さく僕の名前を呼んだ。触れていた手を少し引いて、僕の注意を惹く。聞いてるよ、とだけ返して、次の言葉を考える。不安そうに声を揺らした那緒が安心するように、浮かべ慣れた笑みを向けた。 「で?」 「……で、って?」 「言うべきではない。それは、誰のために?」  那緒の手が、僕の手から離れる。多分、右手の指先で左手の人差し指を掴んでいる。親指と人差し指と中指で、いじけた様に指先を摩っている。言葉を考えるときの那緒の癖だ。ほんの十数秒そうして考え込んで、思い出したかのように僕の手を握った。別に、今は移動していないのだから、手を繋いでなくたっていいのに。そういうところが真面目だって、クラスメイトに弄られるんだ。真面目だからこそ、一人で気持ちに踏ん切りがつかなくて、僕に相談してきたんだろうけど。  でも、那緒がそうして自分の気持ちを吐き出すことができている時点で、もう答えは出ているも当然なのだろう。ただ、決心がつかなかったか。もしくは、僕に知っていてほしかっただけか。今まで僕たちは、なんでもかんでも共有してきたから。ゲーム機、漫画、弁当、参考書。今は、那緒の見る世界を僕が借りている。  二人で共有してきたからこそ、那緒が翔を好きになってしまったのは、必然だったのだろう。 「じゃあさ……じゃあ、もしあっきーが俺の立場だったら、どうした? 翔に自分の気持ち、言う?」  咄嗟に首を横に振ろうとして、やめた。自分の考えで動くことのできる那緒だけど、なぜか僕の言動を自分のものとして捉えてしまうことが多いから。長いこと一緒にいたからこその欠点だと思う。  翔の気持ちも、那緒に向いている。本人たちはバレないようにコソコソしているつもりらしいが、僕にはわかる。それを那緒に言ってやるつもりはないけれど、だからこそ、僕はここで首を横に振ってはいけない。 「さー。僕は那緒じゃないからなー。僕の意見なんて、聞いても無意味でしょ?」  那緒が押し黙る。そうだけど、と消え入りそうな声が聞こえる。  なんとなく二人の矢印に気が付いている僕からしてみれば、とっとと伝えてしまえばいいのに、と思えてしまう。でも、それは那緒の性格的には難しいのだろう。那緒は、人に好かれやすい癖に、一人からの好意にまっすぐに向き合うのが下手糞だ。確かに誠実だし親切だ。そこを好かれて、告白される。その人の気持ちを無下にできずに付き合う。しかし、他の人への誠実さや親切さもそのままだから、恋人から不満を持たれて結局フラれる。  こんなにいい男なのに。  だからこそ、那緒に心から好かれた人は幸福だ。彼の特別にしてもらえたのだから、幸福だ。それが翔だというのだから、僕も喜ぶべきだ。翔には、幸せになってほしいと思っていたから。  僕の手を握る那緒の力が、少しだけ強くなった。 「選択肢が『伝える』か『黙っているか』の二択なんでしょ? もう、好きだって気持ちはどうにもなんないんじゃん。翔なら、那緒が気持ちを伝えたとして、酷く断るようなことはしないと思うけど」 「そこなんだよ。翔は優しいから、俺に合わせようとするんじゃないかと思って」 「翔はそんなに弱くない。確かに、僕ら三人で話をしているときは意見を譲ることが多いけど、ほんとに嫌なことは嫌って言うだろ?」  また、那緒が黙り込む。さあ、あと一押しだ。小学校で花瓶を割ってしまったことを自首しようとしていた時のように、中学校の生徒会長に立候補しようとしていた時のように、最後の一歩は僕が背中を押してやるから。  僕らの元に、一つの足音が近付いてくる。静かな足音だ、翔だろう。ようやっと委員会が終わったらしい。  那緒の手を振り払い、真っ暗の道を歩き出す。最初の一歩目は、当然怖かった。 「僕、今日スーパー寄って帰んなきゃだったわー。そこまで付き合わせるの悪いし、先帰るね」 「えっ、ちょ、あっきー! 買い物って、わかんのかよ!」 「よく買うやつだし、大丈夫」 「いやでも、危ないって! 今日、白杖忘れてきたって言ってたじゃん!」  まだ、翔はそれほど近くには来ていなかったらしい。やっぱり、目が見えなくなってから、耳がよくなったようだ。  慌てた声を上げた那緒の指先が、僕の手首に触れる。捉えられる前に身を翻し、不安げな表情を浮かべているだろう那緒の鼻面の高さに、人差し指を突き立てた。 「言わずに後悔すんの? 叶うかもしれないのに? 少しの可能性に賭けてみろよ。……人間関係にビビるなんて、那緒らしくもない。……僕はいいよ。姉ちゃん呼ぶから」  那緒が少し戸惑ってから、静かに笑う気配がする。  遠くから、翔が僕たちを呼ぶ声がする。まず那緒が振り向いて、少しだけ緊張した声を腹から捻りだす。僕は、とっととこの場を後にすることにする。  恋は盲目とは、よく言ったものだ。僕は、随分前から目が見えなくなった。ずっと暗闇の世界の中で、那緒と翔の声だけを聴いている。でも、彼らの互いへの気持ちは、その声からだけでも十分に伝わってくる。毎日のように一緒にいれば、嫌でもわかってしまう。でも逆に、見えていなくてよかったのかもしれない。二人の互いに向ける視線を目の当たりにしてしまっていたら、僕は二人の前で、心から笑えなくなっていたかもしれない。  ポツポツと頬に雨粒が落ちてきて、クスリと笑う。すごいな。タイミングばっちりかよ。  明日から、僕らの世界は変わるのだろう。休み時間や放課後の度に、三人で馬鹿みたいな話をしたりしていた僕らの、下らない日常が変わるのだろう。  那緒の相談を受けたことについて、後悔はしていない。那緒に言った言葉も、全部ちゃんと本心だ。翔に幸せになってほしいと願いながら、僕は那緒が泣くような世界も望んでいないのだから。
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