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76年前の3月10日のこと。 祖母(故人)は、江東区の大島というところに済んでいた。祖父は既に亡くなっていた。 空襲の警報があって、娘ふたりを連れて逃げた。橋を渡ろうとした時には橋の上も川の中も死体が沢山あってよけながら歩くのは大変だった。  川を渡ると大勢の人がある場所に向かっていた。祖母達の親子三人もそちらに向かったが、祖母が途中の道で軍人さんの馬に蹴られてコケたので、入れなくなった。  その時、お詫びにと軍人さんが、自分の麦飯のお弁当をくれた。  多くの場所は本所の被服工廠(ひふくこうしょう)跡地で、祖母達は入れずに助かった。  ※避難した人達は炎と煙にまかれてみんな亡くなってしまったという。 それからも右往左往しながら避難場所を探した。  焼夷弾による爆撃は続いていたので、互いの防空頭巾の火の粉を払いながら、逃げていた。途中、娘(叔母達)とはぐれそうになったが、娘が大きい声で「○○のお母さん!」と叫んでいたので、引き返して会えた。  やっとどこかの防空壕に三人して避難できた時には他の親類や近所の人達とは離ればなれになって 翌朝、防空壕を出て自宅のあった場所に向かった。  あたり一面、焼け野原で、川(隅田川)も橋の上も死体で埋まっていた。一緒に逃げていた祖父の従兄弟の一家は途中で別の防空壕に避難したが、皆亡くなってしまったという。祖父の位牌と着物に守られた、と祖母はそう言っていた。  その後、焼け野原になっていた街を出て、なんとか鉄道の無事なところまで歩いて祖父の実家、「いわき」に向かった。 (母親 談)  母は学童疎開で山形にいた。六年生は卒業式のために東京に帰って、空襲に遭ったため、殆ど残っていない。一、二年生も親元にいたため消息不明だという。  とにかく運の強い人達である。祖母は数え90歳で亡くなった。叔母ふたりは60代で病気で亡くなったが、母は健在である。(もうすぐ90歳(;^_^A)  祖母達の生死を分けたのは蹴りをかました軍人さんの馬🐴でした。
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