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亜紀の元気がない。
最近はクラスメイトの棚辺や美原と一緒に帰っていないようだし、進路相談室に呼び出されることも多いようだ。何かを機に、亜紀を取り巻く何かが変わってしまったようだ。
今日だって、進路室の前で進路科の先生に何やら説得されている姿を見た。担任を嘲笑うような進路希望調査書の第一志望欄が、先月辺りにようやく落ち着いてきたと思っていたのに、今度は何をして先生を困らせているのだろう。
俺が聞いてもいいのだろうか。こういう仕事は、亜紀の幼馴染だという棚辺に任せるべきだとは思う。しかし最近は、亜紀自身が棚辺を避けるように行動している。あれだけ仲がよくて互いに信頼していた二人の間に、溝がある。き他の人にはわからないほどに薄っすらとできたそれはきっと、亜紀がつくった溝だ。そんな中で、亜紀の元気がないようだけど、と、棚辺に相談してもいいものか。
俺のベッドに横になってSNSを流し見ている亜紀の腹に凭れ掛かり、睨みつけてくる眼鏡越しの視線を無視する。
「なに」
「亜紀さぁ……進路どうすんの。最近なんか、悩んでる?」
亜紀は、人が隠していることを暴き出すのが上手い。それなのにどうしてか、自分の隠していた気持ちを吐き出すのは下手糞だ。少しだけ言い悩む様子を見せた亜紀が、携帯を伏せ、枕を引き寄せて顎を乗せる。
「進路に関しては、確かにちょっと悩んでる」
こいつは、俺のことをただの馬鹿だと思っている。悩んでいるか、という問いは、ただ『悩んでいるか』と聞いているだけの薄っぺらいものだと思っている。俺だって、色々考えて、『悩んでいるか』に色んな意味を含ませて聞いているのに。
それでも、亜紀が俺との会話ではいつもよりも深くものを考えずにリラックスして言葉を使っているということは、馬鹿な俺でもわかる。だから、別にいい。
「三重大は? そこにするって話で落ち着いてなかったか?」
「名市大を諦めるのは惜しいって、ずっと言われてたし」
「それでも三重大に行きたいってゴリ押ししたのは亜紀の方だろ。今更また名市大に推薦されたって、なびくお前じゃあるまいし」
僕の何を知っている、と、亜紀の目が細められる。
知っているさ。どれだけお前を見てきたと思ってる。お前が余所見をしている間にも、俺はずっとお前を見ていたんだ。
俺と亜紀はもう、友達ではない。しかし、恋人にもなれなかった。つまるところは、友達以上恋人未満の関係だ。亜紀にそう言えば、きっとこれ以上にないくらいに顔を歪ませて『やめて』と言われるだろう。偏見はないけどお前だけは嫌だ、とも言われるかもしれない。そのくせ、しょっちゅう俺の部屋に入り浸るのだから、こいつも寂しさを感じているに違いない。
「頭のいいやつの考えてることは、俺にはよくわかんねえなあ」
「健冴はどうするんだっけ。農大いくの?」
「いくわけねえじゃん! なんで高校出てまで勉強しなきゃいけねえんだよ。この学校だって、スポーツ推薦なんだ。勉強なんて、とっくに追いつけてない。就職、就職」
「決まってんの?」
「なんとなく」
ふーん、といまいち聞いていないような相槌を零した亜紀が、また携帯と向き合った。その画面を覗いてみると、取っ散らかったSNSのタイムラインが表示されているだけだった。何が面白いというわけでもないらしい。
ぼんやりとした亜紀の目は、画面も俺も見ていない。思い返してみれば亜紀は、あれだけ仲のよかった棚辺と美原のことも、最近は直視することが無くなっていたように思う。
そっと手を伸ばして、亜紀の顔から眼鏡を取り上げる。既に悪かった目付きが更に険しさを増し、右手が眼鏡を追いかけるが、少しだけ目指す位置がずれている。
「お前が三重大志望してたのって、美原がそこ志望だったから? やっぱお前、美原と喧嘩したんじゃねえの?」
「してないっての。そもそも翔は、そんなに怒らないし」
「じゃあ棚辺? お前ら仲良かったよな?」
「喧嘩してない。……というか、那緒と喧嘩したって、三重大やめる理由にはならなくない? 那緒は県内の大学志望だし。……そもそも、たかが喧嘩で志望高変えたりしない」
「たかが『先生を困らせたい』って理由で志望高ころころ変えてただろ、お前」
眼鏡返して、という言葉は無視する。
最近の亜紀は水死体だ。いや、水葬された死体かもしれない。ともかく、水に漂う、動かなくなった人間だ。動けなくなった、人間だったものだ。
何が原因でそうなってしまったのかはわからない。でも恐らく、棚辺と三原に関係があるのだろうということは察することができる。亜紀が三重大志望をやめたのは、美原から逃げるためだ。あんなに大人しそうなやつの、何を恐れた背を向けるのだろう。
「泊ってく?」
「帰る」
ベッドから体を起こした亜紀が、俺の手から眼鏡を奪い取る。
いつか、無人島に漂流した男が、万能な水死体と共に初恋の相手に会いに行くという、阿保らしい映画を見た。生前の記憶を失った水死体に人間らしい感情を思い出させるために、主人公は水死体に恋愛感情というものを教えようとする。
あんな下品な映画の真似事はしたくないけれど、死んだ亜紀の目に少しでも光を映させるためには、それをするのが一番手っ取り早いような気がする。
「泊ってけよ」
「やだ」
「俺らの仲じゃん」
「だから嫌だって言ってんだよ」
上着を羽織り、荷物を持って、亜紀が部屋の扉に手をかける。物理的に引き留めたりはしない。そうすれば最悪、亜紀は俺の部屋を訪れてくれなくなる。
「キスは許してくれたじゃん」
「一回目のあれは、キスじゃなくて事故。お前は、出会い頭に歯が欠けるような衝突をすることをキスって呼んでんの? 二回目のあれは、犯罪」
「犯罪って言うなよ」
「寝てるやつの口を塞ぐのがキスなの?」
「そうやって聞くと犯罪っぽいな」
「だから、そう言ったじゃん」
呆れたような溜息を吐いた亜紀が、死んだ目だけで俺を振り返る。
キスをしてしまったから、もう俺達は友達じゃない。でも、セックスは許してくれないから恋人じゃない。クラスメイトの女子カップルは、キスをしただけで恋人になったらしいのに。
「亜紀」
「帰る。……また明日」
暗い廊下に、亜紀がとけて消えた。
俺は今、水死体にとって、ただ掴まって休むことのできる流木に過ぎないのだろう。その流木が、本当は水死体に命を吹き込みたいと思っているのだということに気付いていながらも、水死体は気付かない振りをして、ただ掴まっている。
亜紀を元気付けるのは、彼の親友たちである棚辺や美原の役目だと思っている。俺には、それができない。その役目は、俺のものじゃない。でも、亜紀に愛だの恋だのを教えるのは、俺がいい。
あの水死体を、俺は、自分のものにしたい。
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