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現在
「ねぇ、あなた。穴場スポットって言ってなかったっけ?」
怒っているのを隠そうともしない声で妻が言う。
「そのはずだったんだけど……おかしいなぁ。あはは」
夢乃橋。
この小さな橋の中央に立つとちょうど正面に花火が見え、なおかつ屋台通りから離れているため、人通りはほとんどない……はずだった。
なのになぜか今日、橋の上にはかなりの数の人だかりができていた。
俺が知らないうちにこの場所も有名になってしまったのだろうか。これではゆっくり観覧できそうもない。
時刻は一八時五七分。花火大会の開始まであと三分しかない。
「……ドライブしながら別の場所を探そうか。最悪、車の中からでも見れるしな」
チラリと横目で妻の顔色を伺ってみると、相変わらず不機嫌そうではあったが、こくりと頷いてくれた。
俺はふぅと安堵の息をつき、車をUターンさせて橋を後にした。
カーオーディオからは相変わらず例のシンガーの歌が流れ続けていた。
今の曲は若い男女の切ない初恋を歌ったバラードだ。静まり返った車内に、シンガーの伸びやかなハイトーンボイスだけが響く。
なんだかいたたまれなくなり、ラジオのチャンネルを変えようとした時、
「この人、このあたりの出身なんだってね」
ギクリとして、思わず手が止まった。
「年齢もちょうどあなたと同い年みたい」
「どうしてそんなに詳しいんだよ」
「この人のブログを見たから」
「へ、へぇ。お前この人のファンだったんだな」
「あなた、こっちの曲も好きなの?」
妻は俺の言葉など完全無視で、再び尋問を始めるつもりらしかった。
「いや、別にそんな……というか、さっきの曲も好きじゃないんだって」
「本当に?」
何がそんなに気に食わないのかはわからないが、妻は再び俺の顔をジッと睨んだまま黙りこくってしまった。
穴が開くほど睨まれて、また鼻の頭がウズウズと疼き出し、指で搔いてしまう。
「ほ、本当だって……」
「もうっ! なんで隠すのっ!」
滅多に怒らない妻に声を荒げられて、俺は思わずたじろいでしまう。
「嘘ついたってバレバレなんだから! だって……」
その時だった。妻の言葉を遮るように重厚な破裂音が大気を震わせ、次いで、車の外から歓声が聞こえた。
花火大会の始まりを告げる、特大の一発が打ち上げられた音だった。
妻は「あっ!」と言って急いで窓を開けると、もはや俺なんかそっちのけで、にわかに明るくなった夜空に釘付けになっていた。
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