猫と握手とロボットと

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「きまりそうかな? 右京君」  東堂清治教授はずれ下がっていためがねを直して、目の前に立った右京連に言った。椅子に座った教授はロマンスグレーの髪に鼈甲柄のフレームのめがねという、銀座を歩いているところをインタビューされても、ロボット工学部教授という肩書きを言い当てるのは難しい優雅さだ。この研究室の二年目、連は茶色い瞳に濃い焦げ茶の髪、少しとがった鼻先と長い睫毛、初対面の人間からは必ず親の血筋を聞かれる欧州人とのクオーター。今時珍しくはなくなったがそれでも日本ではまだ黄色人種以外はマイノリティーだ。 「もし、テーマが出てこなかったら、同僚のテーマを手伝って共同発表ということでいいだろうか」 「もう少しだけ待ってください。五月の連休明けには必ず」  教授はため息のような咳払いをしてかろうじて連に承知したといったように見える。  どんな研究テーマを考えても他の大学ですでに開発が始まっているものばかりで八方ふさがりになってしまった。教授からはやりたいテーマを優先し、先行している研究室があるなら共同研究を申し込めと言われたものの、すでに研究の始まっている研究室との共同など想像しただけでもやりづらい。大学院に残ったのは何処にもない何かを作り出したかったからだ。誰かにできる事ではなく、自分にしかできない何かを。 「言っておくが、時間が立てば立つほど時間と予算はきびしくなるよ。人的なリソースもね」  教授は現実を突きつける。当たり前だ。連は頷いた。 「あ、それと、君に一つお願いがある」 「なんでしょう。教授」 「今年入ってきた院生の津城君。去年の君のテーマに少し似ている。指導してやってくれるか」  連の去年のテーマは特定の人間の動きに反応してしっぽを振る犬のロボットだ。よく似たものはたくさん存在するが、センシングを多角的に導入した。特定の人のなで方や人影、汗などの匂いにたいしてしっぽの振り方が微妙に違って個別に反応するというものだ。飼い主のデータをロボットに教える事によって、飼い主以外にはあまり反応しないというもの。 ロボット工学を目指す者で東堂清治教授の名を知らない者はいない。ロジックにしろ、応用にしろ、最先端の技術を次々とたたき出している誰もが入りたがる研究室だ。ついこの間までは。高い競争率を勝ち抜いて入った研究室のテーマは、連が入った途端、全く予想外の方向に変わってしまった。機動力の高い産業ロボットを開発しているはずの研究室のテーマは、人に「癒やし」を与えるロボット開発に変わっていた。  研究室に入って最初の一週間は様々な角度から「癒やしとは何か」を研究室のメンバーで話あうことに費やされた。右京連にとって苦痛以外のなにものでもなかった。癒やしなどなんの役にも立たない。物理的な成果を誰が定量的に評価できるというのだ。だが、東堂教授の研究テーマの変更はロボット工学会から好意的に受け止められた。それもこれも教授がずっと第一線を走ってきたからだ。教授の研究室にいる事はこの部門でやっていく限り有利に働く。連はくだらないという気持ちを押し殺し、一年過ごした。そして今年、二年目の春。無理にとどまった研究室では自分のモチベーションも研究意欲も限界に来ている。いっその事、別の研究室に移動すればいいのだが、自分が立ち向かえなかったテーマを残すのもためらわれた。ここまで来たら、癒やしが生み出すロボットが本当に世の中に必要とされるものなのか見極めたい。  研究室の一角では連の同期が二人、黙々と作業に打ち込んでいる。 藤村は無類のオペラ好き。歌劇こそ癒やしのパワーの源だと断言し、好きなオペラ歌手が自分だけに自分の選曲で歌ってくれるというマシンを目指しているらしい。連からすると高性能なヘッドホンとデジタル音源さえあれば、映像を加えて再現できるコンテンツのほうがよほどお金もかからないし、クオリティの高いものができると思わざるをえない。だいたいロボットに耳元で歌われても困る。 もう一人の同期、片岡は癒やしとはお袋の味だと信じて止まない。実家のレシピを正確に作れるシェフを製造するのだと息巻いている。これもまた、連から言わせるとナンセンスだった。母の味を再現するなど、これからの未来を作っていく自分の家庭を持とうという気持ちがあるのか。こいつは、十年後も彼女いない歴と年齢がイコールのままに違いない。  人の研究テーマには穴が見えるし、同意もできない。しかし、実のところ連には癒やしというものがなんなのか正直わからない。果たして今まで自分が癒やされたことなどあっただろうか。いや、癒やしを求めなくてはいけないなどという状況はあり得なかった。癒やしを求めるものは弱い者。理想の自分に弱さは必要ない。けれど、そんな繊細さが想像つかない自分は自分が認めたくない。だれもが膝を打って納得する研究テーマをなんとかたたき出さなければならない。思いつくありとあらゆる学部が存在するこのマンモス大学では院生も積極的に学祭に参加する。しかも、ロボット工学部にとってこの学祭はカスタマーフィードバックとマーケティングデータを収集する絶好の機会。つまり毎年の研究課題のデモ機は必ず学祭までに作成しなくてはならない。後輩の面倒を見ながらもう一度一から考えよう。癒やしを提供する、自分にしか作れないロボットとはなにかを。 「右京先輩」  論文や特許の資料に埋もれていると上から声が振ってきた。見上げると少し垂れ目で人なつっこい顔が見下ろしている。面倒を見ろと言われた一年後輩の津城誠人だ。 「あ、聞いてる。教授から、で、テーマは何だっけ」 「猫です」 「は?」 「人間に癒やしを与えるセンシング反応型の猫のロボットです」 「それって、似てるどころか俺のコピーじゃん」 「違います。先輩のは犬。僕のは猫です」 「どう違うんだよ」 「えっと、先輩のセンシングポイントと行動は人影、人の汗のにおいとなでるという行為に対してしっぽを振るでしたよね」 「おう、論文読んだのか」 「はい。デモ機も見せてもらいました」 「よし。で? おまえの考えは?」 「インプットのセンシングポイントは特定の人の声とその人のたてる音。例えば歩く音」  後輩は説明した。イヌは嗅覚に優れた動物で、猫は逆に五千種類以上の音を聞き分けられる聴覚に優れた動物。その人の声や立ち居振る舞いで出る音に反応すると。 「アウトプットの行動はその猫特有の喉ならしと鼻キスです」 「鼻キス?」  百九十センチ近いひょろ長い津城誠人が猫のように背中を曲げながら言った。 「先輩、猫飼ったことあります?」  照れ隠しなのか鼻の頭をかきながら言った誠人の言葉に、連は首を横に振った。 連が猫を飼ったことがないと聞いて、誠人はできれば明日から二泊三日くらいで家に来てくれと言った。 「二泊三日? 猫見るのになんで二泊三日、って、なんで泊まり込み合宿?」 「家の猫、知らない人に慣れるのに最短で二十四時間かかるんです」 「は? なんだそれ、ドラマのタイトルか?」 「どうも、一晩いると、あ、どうやら危害を加える人じゃないって思うのか。こちらもいくら慣れた友人とかでもさすがに家に呼ぶとなると自分も緊張する場面があるし、自分も先輩とたぶん二十四時間くらい一緒だと普通に過ごせるので、猫も安心すると思うんです」 「安心ね。で、なんで二泊三日なの? 二十四時間なら一泊二日でしょ」 「安心するだけじゃだめなんですよ。先輩のこと好きかな? 仲間かな? と家の猫に思ってもらわないといけないから。鼻キス経験してもらうために」  誠人は研究室のホワイトボードを一つ持ってくるとタイムラインを書き始めた。最初の二十四時間で連が危害を加えないとわかってもらう。その次の十二時間で、たまには遊んでくれる、ご飯をくれる、おやつをくれる案外いいやつと思ってもらう。そのあとの十二時間で、相手の告白、つまり鼻キスが出るかを待つのだという。ホワイトボードだけを見ているとまるで短期決戦で誰かの心を射止めるための戦略会議だ。  しかし、誠人は大まじめで最後の一日が肝心と力説している。猫の喉ならしは音声データが有るので説明できるが、鼻キスは猫の鼻の触れ感が大事だから体験してもらうしかないという。人から好かれることに苦労したことはない。自分にその気があるなしに関わらず、物心ついた頃から異性からのアプローチは枚挙にいとまがない。自分に感心ないふりをしている女子をいれれば、クラス全員を彼女にする事だってできた。だが、猫相手だと容姿も成績も関係ない。果たして二泊三日で相手の心を射止める事などできるのだろうか。 「キスされそうってわかるのか?」 「わかりません。たいていはあちらから気まぐれにやってきて、やり逃げされます」 「なんだそれ!」 「あくまで主導権は相手がもっていて、相手の都合ですから」  こちらから好きにアプローチもできないと言っているようだ。これが人間のパートナーだと仮定すると、自分からキスはできない、相手からキスされるのをひたすら待つということか。あり得ない。人生あり得ない事態だ。 連と誠人は表向きこの二泊三日をセンシングポイントの絞り込みとのどを鳴らす猫のバイブレーションと音の再現方法について話し合う自主合宿として位置づけた。ちょうど三連休だ。 「今日から一週間、親と姉貴達、海外旅行なんで」  誠人は連の鞄を自分の鞄とは反対の肩に担ぐと「津城」と書かれた表札の門柱前で、重厚な日本家屋を見上げながら言った。玄関に入るとすぐに黒い物体が出迎えた。 「アルベルト二世です」  その黒い生き物は誠人の手の中で抱かれながらも、連に向かってシャーという言葉を吐き出しもがいている。どこかに逃げたいようだ。瞳孔は黒いが周りは薄い青色。ビー玉のようなガラスの目がこちらをにらんでいる。 「アルベルトって、なんで二世、それって、つまり、こいつ雄なの?」 「はい、アルベルトは雄です」  雄と鼻キス?あり得ないだろう!連は思った。けど、ま、猫だ。要は好かれればいいだけの話だ。ジェンダーも、種の垣根も越えてやる。誠人の手の中でもがいているアルベルトは、後ろ足で誠人を足蹴にするとどこかに走り去った。 「先輩、今日はもう遅いから後でアルにおやつやって寝ましょう」  誠人の家の最寄り駅で夕食は済ませてきた。大学近くの洋菓子店で買ったクッキーを誠人に渡すと彼は礼をいいながら、使えますね、これ、と言った。連は猫ってクッキー食べるのかと思いつつ勧められるまま風呂を先に使わせてもらった。  日本家屋の檜風呂だ。檜の良い匂いがしている。暖かい風呂や檜の匂いに癒やされるというのは理解できる。だが、やはりロボット工学と癒やしが結びつかない。考え得る技術はもうすでにある。人らしい相づちを打てるロボットも、一緒に散歩してくれるロボットだっている。公になっていないがデートしてくれるロボットだって存在するのだ。それ以上何ができるというのか。生命体以上の癒やしを再現できるものは無い。所詮はロボットだ。代替えなのだ。  風呂から上がると、持ってきたクッキーの缶を開けて物色している誠人がいた。 「猫ってクッキー食べるのか?」 「え?」  誠人はクッキーについていたリボンを手に巻いて不思議そうな顔をしている。 「だって、さっき使えるとかいってたし、おやつやるんだろ?」 「ああ、そのことですか。使えるのはこっちです」  誠人がたらりとリボンを床に落とすと、黒い物がだだっという足音とともに走ってくる。誠人がひゅいっとリボンを新体操よろしく振り回すと、黒い丸いものが天上近くまで跳ね上がり一回転して降りてきた。  猫が降ってくる。 連は思わずわっと叫びながら頭を押さえて退き、足を絡ませて尻餅をついた。 「じゃ、先輩、俺、風呂入ってくるんで、これでしばらく遊んでやってくれますか。近寄ってきてもくれぐれも捕まえようなんて思わないでくださいね。引っ掻かれますから。あと、リボンを離さないでください。たまにかんで食べ始めてしまうので」  誠人は床に座り込んでいる連にリボンの端を握らせると、バスタオルを担いで風呂場に消えた。  アルベルト二世は連の方を見て警戒して近寄ってはこないものの、「正しく遊ばせて見せろ」とでも言うようにリボンと連を交互に見ている。  新体操のようにリボンを振ればいいのか?いや、猫が降ってくるのは勘弁してもらいたい。とりあえずリボンを蛇のように動かしてみる。アルベルトは、まぁ、これでも遊んでやるかとなんとなく気乗りしない足取りで少し近寄ってきたと思ったら、リボンに飛びつき引っ張られた。渡してなるものかとこちらも引っ張ると爪にリボンを引っかけてあちらも綱引きする。何度か奪われそうになりながらもリボンの端だけは手放さないようにする。少しずつ距離が縮まった。興が乗ってきて手前に引いたリボンごとつられたアルベルトが一瞬、連の膝の上に乗る形になった。ついその身体を両手で挟んだ。次の瞬間手の甲に赤い筋を残して黒い物体はどこかに消え去った。 「先輩。触っちゃだめっていったじゃないですか。大丈夫ですか?」  手の甲を舐めている連を見て誠人が言った。 「ああ、たいしたことない」  それにしても、あの手触り、イヌとはまるでちがう。ソフトなのに手に吸い付くようなしっとりした毛並み。櫛で梳いたようにそろっていた。ふわっとした手触り。確かに印象に残る。 「じゃあ、先輩これ、あいつが大好きなおやつなんであげてください。手からは食べないと思うので少し遠くに置いてちょっとずつ先輩の近くにおいてください」 「指示が細かいな」 「俺、その間に明日の音声データ調達してきますんで」 「音声データ?」 「猫の喉を鳴らすごろごろ音」  誠人はそういうと、廊下の先の階段を上っていった。パソコンにデータを入れているのだろうか。調達という言葉が気になったが、言われたようにおやつが入っているというアルミフィルムの袋を破る。袋の音を覚えているのかアルベルト二世はいつの間にか戻ってきて、距離をおいてこちらを見ている。連は、自分とアルベルトのちょうど中間におやつをいくつか置いて自分は下がった。  アルベルトはよくわかってるじゃないかと言わんばかりに、それでもこちらを警戒しながらしゃなりしゃなりと歩いてきて、小さいクッキーのようなおやつを食べた。残りをもう少し自分に近い方においてみたが、そういうことするのかという猫の瞳の圧力に負けて、さっきと同じところにおやつを置いて戻ってきた。アルベルトはわかればいいんだという顔をして機嫌良く平らげるとどこかに去っていった。 「三日目に鼻チューとか、ありえなくね?」  おやつを置く距離を縮められなかったと告白しつつ連は言った。誠人が自分のベッドの隣に敷いた布団に潜り込む。 「今晩から明日の距離の縮まり方によりますね」  誠人は客間もあるが、猫は人が寝ているところに暖を求めて入ってくる生き物だから、それもあって一緒の部屋に布団を敷いたと付け足した。 「俺はどこでも寝られるたちだから大丈夫。つか、一緒の部屋に寝てても警戒して入ってこないんじゃないか」 「わかりません。ん、いや、でも、たぶん、先輩なら大丈夫だと思います」  ベッドから身を起こして連を見下ろして誠人が言った。寝ている頭からつま先までを見られているような気がして連は落ち着かない。 「なんで?」 「気を悪くしないでください」 「おう」 「右京先輩は小柄で、声のトーンも少し高い。しゃべり方がソフトで、つまり、少し女性っぽい」 「はぁ?!」  連は、がばりと布団を押し上げて、起き上がった。反動で誠人がベッドの奥に引き下がる。 「あ、だから、猫って、女性の方が好きみたいな。とくに雄はそうみたいなんです。アルベルト二世は、家でも姉貴達によくなついているし」 「どうせ俺は女っぽいよ、くそ、もう寝る」  連は布団をかぶった。  誠人がリモコンで電気を消す音がして部屋が暗闇に食われた。意外と疲れていたのか、すぐに睡魔に襲われた。連は夢を見た。  イギリスの祖母の家の夢だ。小学生までをそこで過ごした。なぜか自分が泣いていて、祖母がそっと手を握ってくれている。暖かい手だ。あぁ、おばあちゃん、まだ生きてたんだ。よかった。今度の夏休みは会いに帰ろう。そう思った時に目が覚めた。現実には去年の夏に祖母は他界している。母が最後の半年はイギリスで付き添っていた。連に見舞いに来いとは言わなかった。なぜなら、祖母は認知症を煩っており、自分が日本人男性と結婚したことを憶えておらず母の事も思い出せないのだという。おそらく孫の顔もわからないだろうと。手も握らせてくれないのだと母が喉を詰まらせて電話口で言った時、他人だと思われながらつきそう母を思ってこちらも胸が痛くなった。  薄闇の中、誠人のベッドの端からきらりと光る者が見下ろしている。アルベルト二世。誠人の顔の近くに丸くなっている。人差し指をそっと近づけてみる。アルベルトは逃げずに、五ミリくらい離して人差し指のにおいを嗅いだ。誠人にもし近くにきたら、人差し指をゆっくり鼻の近くに出すように言われていた。アルベルトは逃げない。だが、まだ距離がある。光る水晶玉を見つめながら連はもう一度まどろんだ。  翌日、誠人の部屋で二人向き合って机を挟みパソコンを開いた。 「イメージは特定の人の声と足音に反応し、のどを鳴らして近づいてきて膝に乗り、ぬれた鼻でキスしてくれるロボットです。あと、猫の平熱って、38.5℃なので、常に暖かくしていたい」  誠人がインプットとアウトプットの整理をしながらデータを入力する。 「ふん。特定の声紋にしか反応しないようにするわけか」 「そうなりますね」 「まずはお前を登録しよう」 「あ、やっぱり、そうですよね」 「何? 他の人にしてほしいとか? 声紋データは入れ替えられる。テストしやすい人間を登録しておかないとデモ機がつくれないだろ」 「わかりました。アクションリストに入れます」 「で、この音声データを再現したいってこと?」  誠人が連のパソコンに転送した音声データを聞きながら言った。どこの音声なのか、猫のごろごろという喉ならしの音の背景にはアルベルトに話しかける女性の優しい声が入っている。 「音声データというか、猫が喉を鳴らす仕組みって解明されていないらしくて。けど、ごろごろって言っている時、身体の上半身が広範囲で振動しているのがわかるんです。セミが全身で鳴いてるみたいに」 「へぇ。ということはなにがしかのバイブレーション機能を胸から喉にかけて埋め込む形かな」 「俺もそんなイメージを持ってました。膝に抱いてる人にも微かに振動が伝わる感じ」  イヌは全身で喜びを表現するものだというのは見ててもわかるが、猫もある意味全身で表現しているわけだ。 「これアルベルト二世の?」  連はごろごろの音を何度も再生しながら聞いた。 「あ、それ、アルベルト一世です」  誠人はちょっと目を伏せて答えた。 「二年前になくなりました。それは五年くらい前のデータです」  連は誠人にそれ以上今聞くのはためらわれて言葉を続けなかった。誰しも家族の一員をなくすのはつらい。 作業を続けながら朝昼はコンビニで調達した食料で済ました。夕食はさすがに外に食べにいく話をしていた時だ。それは不意に足元に現れた。連の足にふわりと何かが触れてどきりとする。 「う、わ」  見下ろすとアルベルトが連の足に頭をすりつけている。 「すりすりされました?」 「これ、何?」 「においづけです。自分のテリトリーにいる異物を、自分のにおいに染める行動だと言われています」 「それって」 「前進です。かなりいいかもです。ちょうどいいから今おやつあげてみましょう」 「アルベルト、おやつ食べるか?」  連はアルベルトに話しかけた。水色の水晶に浮かんだ黒いビー玉がこちらを見ている。昨日よりも近いところでおやつを食べたアルベルトは、気がつけば常に見えるところにいる。昨日は姿を隠して全くどこにいるかわからなかったが、案外人間の近くにいるものだということがわかった。夕方になるとアルベルトは誠人のベッドで丁寧に毛繕いをしたあと、いつの間にか四肢を存分に伸ばして寝ている。連の目にもずいぶんリラックスしたように見える。誠人の二泊三日の意味がわかってきた。 「へぇ。なんか、かわいいところあるんだな」  連は手足をぴくぴくさせながら、眠るアルベルトを見ながら小声で言った。 「夢見ているみたいですね」  センシングの部分のめどがつきそうでもあり、夕食は最寄りの駅まで行って、居酒屋のチェーン店に入った。 「先輩、なんか、渋いおつまみ好きなんですね」  いかの塩辛、枝豆、厚揚げを前に並べてつまんでいる連に誠人が言った。 「で、なんで猫なの」  一杯目のビールを飲み干すと連が聞いた。 「じゃあ、連先輩はなんで犬だったんですか」 「わかりやすいだろ。癒やしの象徴だし。犬なら近所に飼っている人がいたから」  わかりやすいテーマを選んだのは自分が真剣に癒やしのテーマと向き合ったわけではなかったからとは言えない。 「猫を再現したいのは個人的な理由なんです。アルベルト一世をすごくかわいがってくれた人が突然猫アレルギーになって、抱っこできなくなったんです。アルいち、あ、アルベルト一世のことなんですけど、アルいちも毎晩恋しがって鳴いたし・・・・・・切なくて」  大きな背中を折り曲げて誠人が枝豆を食べながらむせび泣いている。 「だからもう一度抱っこしてやってほしいって。すみません。ほんとはもっと人類の役に立つ癒やしを考えないといけないとは思うんですけど」 「まぁいいんじゃないの。世界的な発明だって、最初は身近な人を助けたいってものが多く・・・・・・って・・・・・・」 「先輩?」 「あ、いや」  連は自分の言った言葉に胸をつかれた気がした。自分と向き合えていないから自分なりの癒やしを考えられないのだと突きつけられた。見たくなかった逃げている自分が目の前に立ちはだかった。 連はビール一杯でふらふらしている誠人を連れて津城家に帰った。ベッドに誠人を寝かした後は、手順を覚えたアルベルト二世のトイレと食事の世話をした。アルベルト二世が「なかなか手際がいいじゃないか」と言っているような気がして、小さい声で、どうもと返事をしてみた。もう時計は翌日を指している。連も布団に寝転がった。  最終的に登録したい声紋データはさっきの女性の声か。猫アレルギーだと言っていた。誠人は彼女のために猫を再現しようとしている。そうまでして大事にしたい相手を持っている誠人がどこかうらやましい。誰か一人のために、癒やしのロボットを作る。もし業績のためだけでなく、自分も誰かの癒やしのために何か作りたいと思うなら何を作るだろう。連は考えながら眠りに落ちた。  ひやりとした物が鼻に触った。冷たい。  目を開けた先に見えたのは水色の水晶に浮かぶ黒い瞳。ひげが触るくらいの距離に目がある。鼻がぬれた感触。これは、鼻キスか? 「アルベルト?俺にキスしたの?」 「せ、先輩?」 「誠人! アルベルトが俺にキスした!」 「ほんとっすか!」 「アルベルト! おまえかわいいなぁ」 「あ、先輩、それは危ない!」  バリっと言った気がする。勢い余って、アルベルトを抱きしめた連のあごに、爪の鉄拳が飛んできた。あの顔は「気安くさわんな」と言っていたと思う。めでたく鼻キスを体験した連と誠人の合宿は、保湿性の高い皮膚素材を探すこと、猫らしい動きのジョイントを見つけるというアクションプランを加えて終了した。  翌週、連は東堂教授の前にたった。自分に向き合った癒やしを実現するロボットのプランを話した。学術的なデータも多少そろえた。それよりも、やりたいことをぶつけた短いプレゼンをした後、教授はにっこりして言った。 「いいんじゃない。僕は好きですよ。そういうの、学祭までにデモ機をつくってね」  連は週末、データ取得のために実家に帰った。  母親に手を握ってもらうためだ。インプットは人の手の温かみと母の指紋、そしてアウトプットはそれに応じた握り返し。握手してくれるロボットはたくさんある。けれど、自分の亡くした特定の肉親から手を握ってもらうことはもうないのだ。だから実現してみようと思った。認知症の祖母に握ってもらいたかった母の願いをかなえるために。母の指紋にのみ反応する祖母の握り方で返してくれる手のロボットを。たった一人のための癒やしのロボットを作る。人の手の温かみは認知症を和らげる効果があると言われているのだ。介護ロボットがあるなら、手を握るだけのロボットがあってもいい。  学祭当日、誠人がたった一人の人をデモ機と一緒に待つように、連もたった一人の人を祖母の手と一緒に待った。                                      了
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