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十・明日のためにできること
私は長距離走が大の苦手だ。長距離走ならばまだ短距離走の方がいい。だからと言って短距離走が得意な訳でもない。
長距離走よりも短距離走の方が苦しい時間が短い分だけまだましという消極的な理由でしかない。
球技だったら自分のところにボールが来ない限りは何もしなくていいので楽だったのに、と心の中でぼやきながら、秋晴れの空の下で最も憂鬱な千五百メートル走のために黙々とトラックを走らされていた。
私は長距離走の時には必ず自分の足許から数メートル先の地面を見ながら走る。
真っ直ぐ前を向いて走っていると、これから自分はまだまだこの先ずっと走らなければならないという強迫観念に駆られて余計に疲労感が増してしまうからだ。
だから二、三メートル先をゴールに見立てて、そこをゴールしたらまた新たに二、三メートル先のゴールを設定して走るようにイメージする。そんなことを五百回か七百回ほど繰り返しているうちにゴールに辿り着けるのだと自分に言い聞かせながら足を前に出していた。
自分が今どのくらい走ってて、あとどれくらい走ればゴールなのかすらわからないまま、ただ機械的に右足と左足を交互に前に出すという運動をひたすら繰り返していた。
余裕のない私の耳には自分の荒い呼吸音しか聞こえてこなかった。時々、すでに前の組で走り終えた舞依からの掛け声が聞こえてはきたが、その声に手を挙げたり笑顔を返したりする余裕はこれっぽっちもなかった。
そんなギリギリの状態の中で、私は紀子のことを考えていた。
どうすれば紀子の記憶喪失を治すことができるのだろうか。そもそも記憶喪失は治せるものなんだろうか。
私には超能力を使うことくらいしか思いつかないが、さてどうやればいいのか。治癒力(ヒール)で傷や病気は治るかもしれないが、記憶を取り戻すようなことはできるのだろうか。それ以前に私にヒールの能力があるのかすらもわからない。
私の未熟な超能力のせいで赤羽を死の淵に追いやってしまった忌まわしい記憶が蘇り、即座にヒールの可能性を否定した。瞬間移動(テレポーテーシヨン)や念動力(サイコキネシス)なんかも今回は役に立ちそうにない。
そうなると、残る手段は時間遡行だけだが、どの時期に遡行すればベストなのだろうか。
紀子が記憶喪失になる直前でいいのか、もう少し遡って頭痛に苦しむ前なのか、それとも超能力を使えるようになる前なのか、それよりももっと前なのか。
みんなが次々とゴールして、歩きながらコースを外れていくその横を通り過ぎた私はゴールしたことにも気付かずにそのままひたすらトラックを走り続けていた。
唖然とするクラスメート達の群れから舞依が飛び出してきて私を追いかけた。
「ゆかり、もうゴールしたんだよ!」
ゴールから五十メートルほど過ぎた辺りでようやく気付いた私は足を止めた。その途端、身体中から汗が噴き出し、ふくらはぎがつりそうになるほどパンパンに張って、膝に力が入らなくなった。
大袈裟だと思われるくらい大きく口を開けてゼーハーゼーハーと荒く呼吸をした。
「大丈夫?」
心配そうに顔を覗き込み、私の背中を優しく撫でてくれた舞依に私は脇腹を押さえながら大きくうなずいた。声を出そうにもそれだけの余力が残っていなかった。
遠くの方で大宮が「早く戻ってこい」と大声で私達を呼ぶのが聞こえた。私が少し早足になろうとするのを舞依が止めた。
「いいよ。無理することないから。自分のペースで歩けばいいから」
五十メートルほど先にいる大宮やクラスメートを朦朧とした目で見ながら、紀子は長距離走が得意だったことを思い出した。
校内マラソン大会や授業でおこなわれる記録測定の時には本領を発揮して上位の記録を出すこともある彼女だが、普段はいつも私のペースに合わせて併走してくれた。
「体育の授業なのにマジで走ったってしょうがないじゃん。それよりもゆかりと一緒に走ってた方が楽しいし」
そう言って私の伴走者としていつも隣を走っていた紀子が今はいない。
彼女が以前と同じように私と一緒に走ってくれるのかどうかはわからない。
それ以前に彼女がまたこの学校に戻ってくるのかどうかすらもわからない。
昼食中に素子が紀子の話を切り出し、そこで紀子が記憶喪失だと告げた。
「黙っていてもいずれわかることだし、むしろみんなに早く事実を知って欲しかったから」
真顔で語る素子にミエも舞依も愛依も一様に驚き言葉を失った。
いつもは昼食後もダラダラとお喋りしたりゲームなどをして時間を潰したりするのだが、その日はみんなそそくさと自分達の居場所へと戻っていった。
昼休みに時間を持て余すようなことがあると必ず昼寝を決め込んでいる私だが、この日は栗橋さんに会うために四組の教室へ向かった。
クラスメートと昼食を取りながら談笑している栗橋さんを教室の入り口から見つけてどう声をかけようかと迷っていると、私に気付いた彼女の方からいそいそと駆け寄ってきた。
「食事中ごめんね」
「ううん。何?」
栗橋さんは手で口許を隠しながらもごもごとした声で尋ねた。
「紀子からメールってまだ来てない?」
ようやく口の中のものを飲み込んだ彼女はうなずきながら答えた。
「うん、そうなの。蓮田さん、今日も学校来てないわよね」
心配そうな顔でこちらを見る彼女に、本当のことを言おうか言うまいか一瞬ためらった。
「いつも元気そうだったから、病気とかじゃないと思ったんだけど。ひょっとして交通事故とかに遭ったりしたの?」
「紀子、今入院してるんだ」
私は事実だけを伝えて、その理由については話さなかった。記憶喪失という言葉を軽々しく口にしたくはなかった。
「えっ?」
栗橋さんは口許を押さえながら目を丸くした。
「だから、紀子からはメールが来ないかも。でもその代わり、こないだ紀子から部誌に載せる短歌をメールで送ってもらってるから栗橋さんに転送するわね」
その場で彼女のメールアドレスを教えてもらった私はすぐにメールを送信した。
「ありがとう。ちゃんと届いたわ」
スマホの画面を見ながら栗橋さんは微笑んだ。
「短歌一つだけじゃほとんどスペースが埋まらないと思うけど」
栗橋さんは力強く首を振った。
「ううん、そんなことないわ。とっても嬉しい。だってこの歌、私のこと詠ってるんだもの」
大事そうにスマホを胸に抱いた彼女は目をキラキラさせながら言った。
「早速蓮田さんにお礼のメール送っておくわね。入院中だからメール見てくれないかもしれないけど」
彼女の嬉しそうな顔を見て、少しだけ救われた思いがした。
「じゃあ、私はこれで」
立ち去ろうとする私に向かって栗橋さんが声をかけた。
「白岡さん、本当にありがとう」
栗橋さんが胸許で小さく手を振った。私もつられて手を挙げた。その時、心の中で「あっ」と思った。
これって、いつだったか紀子と栗橋さんが廊下ですれ違った時みたいだ。
私も紀子と同じように栗橋さんと友達になれたような気がした。
「ゆかり」
教室に戻ってきた私に舞依が声をかけた。
「何だか嬉しそうな顔してるけど、良いことでもあった?」
そう言われて、照れ隠しをすることもせずに私は舞依に笑顔を返した。
「うん。ちょとね」
「そう。良かったね」
放課後、私は一人で『あみん』に向かった。
お店に入るといつもの席で藤井がコーヒーをすすり、マスターがカウンターから私に微笑んだ。
「いらっしゃい」
私はガラガラの店内にも関わらず藤井の前に座った。彼の前に座るのが自然な流れとなっていた。
「今日はお一人なんですか」
はい、と短く答えると私は常々思っていたことを口に出した。
「藤井さんはいつからこのお店に来てたんですか?」
「ついさっきですよ。このコーヒーはまだ一杯目です」
「今日は何になさいますか」
マスターがメニューを私に手渡した。
「お好きなものをどうぞ。何を頼んでも良いですよ。私の奢りですから」
藤井のこのセリフに最初の頃は恐縮していたものだが、最近はおごってもらうことにすっかり慣れてしまってなんとも思わなくなっている自分が怖かった。
「いつもすいません」
藤井には社交辞令のようにしか聞こえないだろうが、少なからず感謝の意味を込めてそう言った。
「気にしないで下さい。私だってお小遣いの少ない高校生からお金をふんだくろうなんて思っていません。お金を持っている人からもらえば良いことですから」
藤井よりも先にマスターが答えた。
「昨日からスィーツのメニューにプリンが加わったみたいですよ。いまだに誰も注文していないみたいですから、ぜひ食べてあげてください」
藤井も負けずにマスターの方をちらっと見返しながら言った。
「え、本当ですか」
私は慌ててメニューをめくった。こないだ試食した手作りプリンが確かに季節のスィーツとしてデビューを果たしていた。
早速プリンとカフェオレを注文すると、私は藤井の方に向き直った。
「今日は蓮田さんはバイトですか?」
何も知らない藤井にこの話をすべきか直前まで迷っていた。が、ここへ来たのは彼に相談するためであって、それを果たさなければ私がここに来た意味がない。ただ食いするために来たのではないのだ。
「紀子のことで相談があります」
私が真面目な顔でそう切り出すと、彼はそれまで組んでいた足をほどいた。
私は手を膝の上に乗せたまま話を切り出した。
紀子が入院したこと、そして彼女が記憶喪失になってしまったこと。それらをできるだけ感情を抑えてゆっくりと話した。
「そうですか……」
彼の嘆息が私の胸を突いた。やはり彼もショックだったのかもしれない。
彼に紀子の現状報告をして終わりではない。本題はこれからだ。
「私、あれからずっと考えたんです。どうして紀子は記憶喪失になってしまったんだろう、って」
藤井が黙ってコーヒーを飲み干すのとほぼ同じタイミングでマスターがカフェオレとプリンを運んできた。
「普段から仲が良かったから、さぞかしショックだったでしょう。心中お察しします」
マスターの言葉に私は自然と頭を下げた。
「またお友達として蓮田さんとお付き合いするんですよね?」
「はい」
私が力強く返事をすると、マスターは優しく微笑んだ。
「今日は、プリンお代わり自由ですからね」
「それって、結局食べた分全部僕に付けるだけですよね」
「もちろん」
二人のやり取りに、それまで私の中でピンと張り詰めていたものがふっと緩んだ気がした。
「やっといつもの白岡さんの顔になりましたね」
藤井に言われてハッとなった。最近心から笑っていない自分に気付いた。
「さて、話の続きでしたね……蓮田さんが記憶喪失になってしまった原因を白岡さんは知りたいと」
「はい。そうです」
私はマスターの手作りプリンを口に運んだ。こないだ食べた試作品よりもより濃厚な味わいになっているにもかかわらず、プリンとカラメルのどちらも出しゃばらないマイルドな口当たりに思わず「おいしい」という言葉が漏れた。続けてカフェオレを口に含む。カフェオレのほろ苦さがプリンの甘味を中和してお互いの風味を引き立てていた。
「そう言えば、蓮田さんは最近頭痛薬をよく飲んでましたよね」
「はい」
「もしかしたらその薬と彼女の記憶喪失との間に何か因果関係があるのではないでしょうか」
それは私も怪しいと睨んでいた。それまでの紀子と違っていたことと言えばそのことくらいしか思いつかなかった。
「でも、市販の頭痛薬で記憶喪失になることなんてあり得るんでしょうか?」
自分で言っておきながら、自分にツッコミを入れたくなるような至極当たり前の疑問だった。飲んだだけで記憶喪失になるような薬が世の中に出回る事なんてあるのだろうか。
「厚生労働省がそんな副作用のある薬を承認するなんて考えられません。が、可能性として考えられるならば、調べる価値はあるでしょう」
私の学力では何をどうやって調べるのか全く想像もできなかった。しかし藤井の言葉で私はふと、あることを思い出して「あっ」と声を上げた。
「私の父が厚生労働省に勤めています」
私は妙案見つけたり、といった顔で藤井を見た。が、藤井の表情は変わらなかった。
「なるほど。それはある意味奇跡ですね。しかし、臨床試験から承認に関わるような重要機密はたとえ職員であっても閲覧が制限されているはずです。お父さんがその関係者でない限りは難しいでしょうね」
「そうなんですか……」
大きく膨らんで大空高く舞い上がった気球がみるみるしぼんでいくような失望感に肩を落とした。
「その薬が本当に危険であれば、ネットとかでも騒がれているはずです。私にもいろいろな知り合いがいますので、多方面から調べてみます」
間違いなく私よりは交友関係が広いであろう彼の言葉は僅かな希望となった。
私はいつもならとうに寝ているであろう時間になっても全く眠気に襲われることもなくむしろ爛々と目を輝かせながらお父さんの帰りを待った。
そして、玄関の物音に機敏に反応した私は部屋のドアを開けた。
「おかえりなさい」
「ただいま」
お父さんは少し驚いた顔をして私を見た。
「まだ起きてたのかい?」
うん、と返事をして話を切り出すタイミングを見計らった。疲れているお父さんの顔を見ているとついためらった。
「? どうした?」
挙動不審な私を見て、お父さんの方から声をかけた。このタイミングを逃すと言いづらくなってしまうと思った私は思いきって部屋を出た。
お父さんはそのままキッチンに向かうと、冷蔵庫から缶ビールを取り出した。
「ゆかりも何か飲むかい?」
私はお父さんからミネラルウォータを渡されるとリビングチェアーに座った。
テレビを見る時の指定席になっているソファーにお父さんはどっかと腰を下ろし、慣れた手つきで缶ビールの栓を開けた。
ゴクゴクとビールを飲むお父さんの横顔がオレンジ色の白熱灯の光に浮かんだ。
「ビールおいしい?」
「あぁ、おいしいよ。やっぱり仕事から帰ってきて飲むビールは最高だな」
お父さんの笑顔につられるように私も笑った。
私はお父さんの隣に移動して、ミネラルウォーターの栓を開けた。
「話って何だい?」
うん、と一呼吸置いてから、目の前の真っ暗なテレビの液晶にぼんやりと映る自分の影を見ながら話し出した。
「紀子ね、今病院に入院してるんだ」
「えっ、そうなのかい?」
「それでね、その原因が、紀子が最近飲んでいた頭痛薬が原因じゃないかって思うんだ」
「頭痛薬で入院なんて普通じゃ考えられないけど。どんな症状なんだい?」
「記憶喪失」
「えっ?」
缶ビールを飲みかけたお父さんの手が止まり、驚いた顔で私を見た。
「ねぇ、お父さん。『フェリツナール』って薬知ってる?」
「あぁ、今年から販売になった市販薬だね」
「紀子は最近その薬を頻繁に飲んでたの。だから、それ以外に考えられないの。頭痛薬を飲む以外はいつもと全く変わらなかったんだもの」
お父さんの方を向いた。お父さんは私からスッと目を逸らし、缶ビールを握りしめたままじっと遠くの方を見つめた。
「わかった。治験で重篤な副作用がなかったか調べてみるよ」
「本当? お父さん、そういうの調べられるの?」
「直接調べることはできないけど、臨床試験担当に知っている人がいるから聞いてみるくらいのことはできるさ」
お父さんは残りのビールを一気に飲み干すと立ち上がった。
「ゆかりの大事な友達が大変なことになってるんだもんな。できることはしてあげたいと思う」
「ありがとう」
私もお父さんに続いて立ち上がった。
「今日はもう遅いから早く寝なさい」
お父さんの言葉にうなずいて私は部屋に戻った。部屋の電気を消して寝付くまでに一分もかからなかった。
遠のいていく意識の中で、取り敢えず今はできることからやろうと考えた。
まずは紀子と友達になることだ。
(つづく)
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