明日晴れなくても(11)

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十一・あなたに会えてよかった  紀子が記憶喪失になったということは事実として認識するしかなく、明日になったら突然彼女の記憶が戻って、また今までのように素子のボケに突っ込む彼女の姿が見られたら最高に嬉しいのだけれど、それはもう叶わぬ願いなんだと半ばあきらめなければならないと覚悟している。  今さら何が原因なのかを知ったとしても、それで彼女の記憶が戻るわけではないが、やっぱりどうしてこうなってしまったのかを知りたいという気持ちは捨てきれなかった。  どうしてこうなったのか、果たして紀子の記憶は戻るのか、戻らなかったら私達はどうすればいいのか、紀子はどうなってしまうのか。  考えれば考えるほど自分の中で答えが見つかるどころか疑問や不安ばかりが増殖してしまって一歩も前に進めなくなってしまうのが怖くて、私はもうそれ以上考えることをやめた。  考えることを放棄したからと言って、紀子のことを全く考えないというわけではなかった。  「どうなるか」を考えるのではなく「どうするか」を考えるようにした。  どうすれば彼女と以前のようにタメ口をききながらくだらない話で盛り上がることができるようになるのか、どうすれば以前のように彼女が私のことを「あんた」呼ばわりしてくれるのか、どうすれば彼女が私に向かって屈託のない笑顔を見せてくれるのか……。  紀子と出会ってから築き上げていった親友としての関係をもう一度ゼロから構築していくしかないんだと自分なりの答えは見つかったものの、あの当時の私達はどうやって仲良くなったのかが思い出せずにいた。  何となく毎日顔を合わせ、休み時間にはお喋りをして、お昼を食べて、一緒に下校して、たまに寄り道したり、土日にも顔を合わせたりメールでやり取りをしたりの繰り返しだけだったような気もする。  そう考えたら、時間という奴がそのうちに全てのことを解決してくれるのかもしれないと淡い期待を抱くようになった。  時計の針が一秒ずつ進んで、気が付かないうちに長針と短針が少しずつ動いていくように、はっきりとはわからなくても少しずつ何かが変わっていく気配というか雰囲気みたいなものだけでも感じられればそれで良かった。  だから、朝教室で紀子の姿が見えなくても、授業中に殺風景な紀子の席を見ても、素子のボケがだだ滑りしたとしても、寂しいとは思わなかった。むしろ週末になったら病院に行って彼女に会って友達としての信頼関係を一つずつ積み上げていくんだという小さな目標を胸に抱きながら前向きに毎日を過ごせるようになった。  土曜日、私は舞依を誘って紀子の病院を訪れた。  前回は素子の車で何も考えずに病院まで来られたが、二度目となるこの日は事前に交通手段を調べて自力で病院までたどり着いた。 「随分と大きくて綺麗な病院なのね」  舞依が病院内をキョロキョロしているのを尻目に、私は七〇六号室を目指して迷路のような廊下を進み、ようやく見つけたエレベーターに乗って七階まで上がると、紀子のいる病室の前で立ち止まった。  家を出るときから、いや、こないだ病院から帰ってきたときからずっと紀子に会いたいと思っていたはずなのに、ここまで来て急に足がすくんでしまった。  この扉を開けたとき、紀子がまたおびえるような目でこちらを見ていたら自分はあの時の素子のように優しく微笑みながら声をかけることができるのだろうか。  弱気の虫がムクムクと肥大化し、ノックをしようとする私の手を止めていた。 「ゆかり、ここでいいんでしょ?」  舞依が私の代わりにドアを軽快にノックした。  はい、という声がして私は舞依に背中を押されながら病室に入った。  紀子はこないだと同じように窓辺に立ち、感情のない目で私達を見た。 「こんにちは、蓮田さん」  できるだけ普段と変わらない声で話しかけようとしたが、ほんの少し上ずってしまった。 「こんにちは」  抑揚のない紀子の声はまるでこちらの様子をうかがっているみたいだった。  私は無理矢理口角を上げて笑みを作った。 「覚えてる?」  紀子にこんな言葉を使いたくはなかった。けれどこれが現実なんだ、と自分に言い聞かせた。 「こないだ来てくれた人ですよね」  紀子は小さくうなずいて答えた。  私のことを覚えてくれていたのが心の底から嬉しかった。と同時に彼女の記憶喪失は入院する以前の記憶が欠落したもので、それ以降については新しい記憶として残っていることがわかって安心した。私の願いが実現する可能性が少なからずあるということだ。  紀子の視線が私とその背後の舞依に交互に向けられていたことに気付いた私は、舞依の方に手を向けた。 「あ、彼女は……」 「はじめまして。西那須野舞依です」  私が言う前に自分で自己紹介した舞依が軽く会釈すると、紀子もつられるように頭を下げた。 「あ、えっと……」  紀子が私を見て何か言いたそうな顔で口ごもった。一瞬彼女の表情の意味がわからなかった。 「? 何?」  紀子は言おうか言うまいか迷っているようだった。 「あのぅ……名前……」  紀子にそう言われて、私は呆然となった。そう言えばまだ彼女に自分の名前を教えていなかった。 「あ、私、白岡ゆかりです」 「白岡さん……ごめんなさい。こないだも来てくれたのに、名前覚えてなくて……」  紀子は独り言のように呟いた。 「いいの。気にしないで。教えてなかった私が悪いんだから」  いつもと違うぎこちない空気が病室に充満して、少し息苦しくなった。  紀子は窓の外に目を向けた。それはまるで私達の視線を避けようとしているみたいだった。 「何か見えるの?」  舞依が声をかけた。 「うん」 「どれどれ」  舞依も一緒になって窓の外を覗き込んだ。 「あぁ、シャボン玉かぁ」  階下で子供たちがシャボン玉を作って遊んでいた。時々キャッキャという甲高い声が窓ガラス越しに聞こえた。 「楽しそう……」  紀子がポツリと呟いた。 「蓮田さん、外に出たいの?」  うん、と紀子は小さくうなずいた。 「外に出ても良いか、看護師さんに聞いてくるよ」  そう言って私は病室を出ると六階のナースステーションへ行き、紀子が外を散歩したいので病室を出ても良いか尋ねた。  看護師さん達は最初難色を示していたが、病院の敷地内で私達が彼女から目を離さないことを条件に許可が下りた。  私は看護師達に深々と頭を下げると、駆け出したい気持ちを押さえながらまるで競歩選手のような歩き方で病室へ戻った。 「OK出たよ!」  ドアを開けるが早いか、私が紀子にそう言うと、彼女の表情が急にぱぁっと明るくなった。  紀子はパジャマの上に白いカーディガンを羽織り、前を歩く舞依の後に続いて病室を出た。 「今日はこんなに天気が良いんだもん。少しは日に当たらないと身体に良くないよね」  外に出ると舞依が大きく伸びをした。 「やっぱ、外に出て太陽の光を浴びると気持ち良いよね」  舞依の言葉に紀子は黙ってうなずいた。病室にいる時よりも少し血色が良くなったような気がした。 「せっかくだから、あそこの芝生のところでこれ食べようよ」  そう言って舞依は手に持っていたシュークリームの箱を見せた。病院へ向かう途中、駅前の店で買ったものだ。  三人は病院の敷地内にある芝生の上に並んで腰を下ろした。 「あ、ちょっと待って」  私は腰を下ろそうとする紀子に声をかけ、ポシェットの中からハンカチを取り出すと芝生の上にそれを敷いた。 「パジャマが汚れちゃうから」 「ありがとう」  紀子はちょっと遠慮気味に言いながらハンカチの上に腰を下ろした。紀子のためならハンカチが汚れることなどどうってことはなかった。  私達が腰を下ろしている芝生の向こうで、さっきの子供たちがまだシャボン玉遊びをしていた。  二人とも幼稚園か小学校の低学年くらいの男の子で、半袖シャツにズボンをはいた男の子がシャボン玉を作り、パジャマ姿の男の子が風に舞うシャボン玉を追いかけながら楽しそうに笑っていた。  あの二人は友達同士なのだろうか。それとも兄弟なのだろうか。そんなどうでも良いようなことをぼんやりと考えていた。  時々、シャボン玉が風に乗ってこちらの方に飛んでくるのを舞依が手を伸ばして割ろうとした。しかしシャボン玉はまるで意志を持っているかのように彼女の手をすり抜けて、ふわりと舞い上がっていった。  上昇するシャボン玉を眩しそうに目を細めながら見つめる紀子の横顔を私は黙って見ていた。 「蓮田さん、入院してから外に出るのって初めて?」 「うん」  紀子は舞依の方に向き直った。 「一人で病室を出ちゃ行けないことになってるの」 「えっ、トイレとかどうするの?」 「そういうときは必ず看護師さんを呼ぶの」 「毎回?」 「うん」  舞依が舌を出しながら「うへぇ~」と渋い顔をした。 「退屈じゃない?」 「退屈。テレビとか読書とかスマホとか比較的自由なんだけど、すぐに飽きちゃう」 「だよねぇ。私なら一日でも耐えられないかも」  そう言いながら舞依はシュークリームの箱を開けた。 「買ってから知ったんだけど、このお店のパイシューってすごくおいしいって評判のお店なんだって。蓮田さん甘いの好き?」  紀子はうなずいてから箱の中のシュークリームを一つ手に取った。続いて私達も箱の中に手を伸ばした。 「あ、一つ言い忘れてた」  舞依が思い出したように言った。 「このシュークリーム、一つだけカラシ入りの激辛シューなんだ」 「えっ?」  驚く紀子以上に私が驚いていた。確かどれも普通のシュークリームだったはずでは。そもそも激辛シューなんて売ってたか? 「じゃあ、いっせーので食べるよ。いい?」 「ちょ、ちょっと待ってよ」  私が止めようとするのも聞かずに舞依が「いっせーの」と掛け声を掛けた。  シュークリームにかぶりつく舞依の顔を私と紀子はポカンとした顔で見ていた。  舞依が私達を見ながらケラケラと声を出して笑った。 「どれもみんな普通のシュークリームでした! そもそも友達のお見舞いに激辛シューなんて買わないよ」 「何だ。よかった」  私はホッと胸をなで下ろして紀子の顔を見た。彼女も一安心したような顔で私の方を見た。 「何よあんたたち、二人とも同じ顔して」 「そりゃぁ、急にあんな事言われたらびっくりするよ。ねぇ?」  私は紀子に向かって同意を求めた。すると紀子も同じようにうなずいた。  紀子が私の顔を見て笑っている。その笑顔を見て私はさらに笑った。  秋空の下でシュークリームを食べながら、ふと『あみん』のカスタードプリンを思い出した。 「蓮田さん、おいしい喫茶店知ってるんだ。退院したら一緒に行こうよ」  うん、と紀子が力強く答えた。 「『あみん』ってお店なんだ」  ふうん、と答える彼女の目が宙を泳いだ。何か思い出そうとしているみたいだったが、彼女の口からはそれ以上の言葉は出てこなかった。  それからしばらくの間、芝生の上でお喋りをしてから三人は病室に戻った。 「それじゃ、また来るわね」  そう言って病室を出ようとする私達に紀子が声をかけた。 「来てくれてありがとう。楽しかった」  紀子の言葉を聞いて、毎日でも病院に来たいと思った。ここまでの交通費は決して安くはないが、時間とお金が許す限りは紀子に会いに来たいと思った。  私が紀子に向かって手を振ると、紀子も小さく手を振り返してくれた。  帰りのバスの中で私は揺れに身を任せながら一人自己嫌悪に陥っていた。  紀子のお見舞いに行って、私は言いたいことの十分の一も話せなかった。本当はもっともっと彼女に話しかけたかった。けれど何か話そうと思うと、そのことを彼女は憶えているのだろうか、憶えていなかったらどうやって話をつなげればいいんだろうか、と頭の中でいろいろな言葉がグルグルと渦巻き、結局自分の口を重くさせてしまっていた。  だから、自然体で振る舞う舞依がとても羨ましかった。私もあんな感じで小気味よく紀子と会話を紡ぎたかった。 「何よ。蓮田さんに会ったのに元気ないじゃない?」  隣に座っていた舞依が私の肩を小突いた。 「ううん。ちょっと疲れただけ」  とっさに嘘をついた。舞依にも気を遣わせるなんて、私は友達失格なんじゃないかとまた自己嫌悪のスパイラルに陥った。 「でも、舞依がいてくれて助かった」  ふっと出た言葉だった。 「え?」 「舞依が話をつなげてくれたから、紀子とたくさん話ができたし」  自分で言っておきながらその通りだと自分の中で納得した。私一人だったらあそこまで話が盛り上がらなかったかもしれない。 「私は、ゆかりと蓮田さんがまた仲良くなれるようにと思ってサポートしただけ」 「ありがとう」 「いいよ。大事な友達のためだもの」  彼女の言う〝友達〟というのが紀子のことなのか私のことなのかはわからなかった。が、そんなことはどちらでも良かった。舞依の気遣いが、何だか心の絆創膏みたいだと思った。どうしてそんなことを思ったのだろう。やっぱり疲れているのだろうか。 「次は図書館前」  バスの音声ガイダンスが次に停まるバス停の名前を告げた。  こんな所に図書館なんてあるのかと何気なく窓の外を見て、私は思わず声を上げそうになった。  バス通りから見える白い建物が、私が夢で見た図書館と全く同じ形をしていたのだ。  私はとっさに窓枠にあるボタンを押した。車内にピンポーンと電子音が鳴り響いた。 「何? 降りるの?」  舞依が驚いた顔で私を見た。  私の目は次第に大きくなる図書館と思しき建物に釘付けになっていた。  バスは速度を緩め、バス停前で止まった。 「舞依、ごめん」  私は舞依を押しのけ、出口に向かった。 「待って。私も降りるよ」  慌てて舞依も私に続いてバスを降りた。  正面に見える建物は間違いなく夢に出てきた図書館と瓜二つだった。  正面の入り口に〝図書館〟の文字を見つけた私は引き寄せられるように建物の中に入った。  自動ドアも、その先のエントランスホールも、壁際に備え付けられた自動販売機も長椅子も、夢の中で見たものと全く同じだった。  夢で見たのと同じということは……。  ――ここに玲良がいる。  毎日朝から閉館するまで一日中図書館で本を読んでいる玲良がここにいるんだと思うと、私は胸の高鳴りを押さえることができなかった。  書架を端から順に歩いて回り、建物の中にいる人の顔を一人ずつ確かめるように覗き込んだ。 「ねえ、ゆかり。どうしたのよ?」  舞依の声に反応するのすらもどかしい。今はとにかく玲良を見つけることが先決だ。  一階のフロアに玲良の姿が見えないとわかると、間髪を入れずに二階へ上がった。舞依も黙って私の後を追った。  しかし、二階でも隅から隅まで歩き回っても玲良はおろか、それらしい人影すら見つけることができなかった。  やはり彼は入院してしまっているのか。それとも、そもそも玲良自身存在しなかったのか。夢の中の出来事はやはり夢でしかなかったのか。  正夢と信じて興奮した自分が急に間抜けに思えてきた。  現実に引き戻され、喪失感に包まれた私の全身を容赦なく疲労と倦怠が襲った。  ガックリと肩を落とす私に舞依がそっと声をかけた。 「用事は済んだ?」  舞依の言葉に私は弱々しくうなずき、まるで試合に敗れたボクサーが力なく退場していくようによろよろと出口に向かった。  貸出カウンターでは、数人の人が列を作って順番に本を借りていた。受付の女性が本に貼り付けられたバーコードをハンディスキャナーで読み取りながら貸出業務をおこなっていた。  うなだれたままカウンターの前を通り過ぎようとしたとき、そのすぐ横の壁に貼り出された掲示板に目が留まった。  それは「図書館通信」というタイトルの壁新聞だった。  いかにも職員がワープロで作成したと言わんばかりの手作り感に溢れていて、普段なら間違いなく見過ごすであろうその紙面に書かれた見出しを見て、私の背中に電気が走った。  そこには「ついに一万冊! 読書の虫、藤沢玲良さんに特別表彰」という記事と、恐らく本人と思われる写真が掲載されていたのだ。  私は何かに取り憑かれたように駆け寄り、その壁新聞を食い入るように見た。  上半身だけが写っている写真の男性は紛れもなく夢で見た玲良と同一人物だった。  私は上気した顔でカウンターにいる女性に声をかけた。 「こ、この男性なんですけど」  貸出業務が一段落して一息ついたばかりの女性職員は、私の顔を見てから壁に貼ってある新聞に目を移した。 「あぁ、藤沢さんね」  初老の女性はくぃっと指の端で眼鏡を持ち上げた。 「今日は来ていないんですか? 多分毎日来てたと思うんですけど」 「えぇ。毎日来てましたよ」  そう言って女性は一旦言葉を切った。 「でも、最近パッタリと来なくなっちゃったわね」 「いつ頃から来なくなったかわかりますか?」 「えっと……八月の終わり頃からだったかしら」  私が夢で見たのと時期的に符合する。 「すいません」 「あ、はいはい」  またカウンターに列ができて、女性は貸出業務へと戻っていった。 「ねぇ、一体何があったのよ」  事の次第を全く知らない舞依が口を尖らせながら尋ねた。 「この図書館とこの男の人が、私が夢で見たのと全く同じ人だったの」 「へぇ、そうなんだ」  私のざっくりとした説明でも舞依は一応納得してくれたみたいだった。 「不思議なこともあるもんね。それって超能力なのかなぁ」  予知夢ならば未来の出来事を前もって見るのだが、今回の場合だと夢と現実の時間軸が同時並行のようなので、私の夢は予知夢とは言い難い。やはりどこかで自分自身が体験した記憶を単に忘れてしまっているだけなのか、あるいは誰かに記憶を上書きされて思い違いをしているだけなんだろうか。  実際に玲良と私はどこかで会ったことがあるだろうか。  玲良が実在の人物だとわかったというのに余計にモヤモヤしてしまった私はなかなか答えにたどり着けずにジリジリとした苛立ちだけが募っていった。 「でもさ、なんかロマンチックじゃない?」  図書館前でバスを待ちながら、舞依が私に言った。 「素敵な彼と夢の中で落ち合うなんてさ。そういうのを恋って言うんじゃない」  恋? 会ったことがあるのかないのかもわからないのに、恋と呼べるのか? 「会ったとか会わなかったとかじゃなくて『会いたい』と思ったら、それはもう恋なんじゃないの」  舞依の理屈が正しいとするならば、これって恋なのかもしれない。が、私自身その実感が全くなかった。  自信たっぷりに恋の話をする舞依に、恋愛体験の乏しい私が恐る恐る尋ねた。 「舞依もそういう恋ってしたことあるの?」 「ううん、ないよ」 「初恋は?」 「まだ」  あまりにも素っ気なく答える舞依に拍子抜けしながら、心の中の自分に問いかけてみた。  これは恋なのか? 「……」  心の中にいるもう一人の私は、腕組みをしたまま、うーんと唸っていた。  布団に潜る時に玲良の夢が見られるかもと淡い期待を抱いている時は大抵見られず、何も思っていない時に限って不意打ちのように突然彼が現れる。  だから、淡い期待こそ抱くものの基本的には思い通りに夢など見られないと思って床に就く。  しかしこの夜だけは記憶に残る彼の幻影を思い浮かべながら、どうか玲良の夢が見られますようにと念じてからベッドに入った。  姿が見えなくてもいい。せめて声だけでも聞かせて欲しい。彼の声を思い出しながら私は眠りに落ちた。  やがて目覚まし時計の電子音が無情に鳴り響き、朝の到来を告げた。  結局、彼が夢に現れることはなかった。 (つづく)
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