月の満ち欠け

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月の満ち欠け

 仕事から帰ると、部屋の床に穴が開いていた。  かばんを置き膝まづいて覗き込んでみたが中は暗い。  機械的に開けたような十センチぐらいの真ん丸の穴で、縁を指で触ってみたけど、のこぎりのようなものを使って切ったざらつきはない。僕は慌ててベランダのサッシを確かめたが施錠されていた。  このワンルームマンションは新築で入居した。就職した昨年に引っ越してきた駅にも近いし気に入っている部屋だった。これを塞ぐのは簡単にできるのだろうか。一時退去になどになったら面倒だな。  もう不動産屋はやっていない。収納の扉を開けユニットバスも確認した。ネクタイを外しジャケットを脱ぐ間も、じっと耳を澄ませ続けたが何の気配も感じなかった。  その上に単行本を置いた。なんの意識もしていなかったが、2017年に直木賞を受賞した、佐藤正午の『月の満ち欠け』だった。床に置くなんて失礼極まりないが、尊敬する正午さんなら許してくれそうな気もした。それからシャワーを使った。 c481c3bf-f5a1-4278-bea4-8480e888172b  缶ビールを飲んでいても穴のことが気になって落ち着かない僕は、立ち上がって『月の満ち欠け』をどかした。するとそこに光があった。腹ばいになって覗いてみた。  そんなバカな! 見えているのはどうやら下の部屋のようだ。それも掛け布団が半分めくられたベッド。やがてそこにワイヤレスの小型ヘッドフォンをつけた若い女性が仰向けに寝転び、焦った僕は単行本を滑らせた。ノースリーブに短パンの部屋着からのぞいた色白の太腿が頭から離れない。  やばいぞ! やがて騒ぎ出すに違いない。なにしろ天井に丸い穴が開いているんだから。僕は穴を開けた覗き男と勘違いされて警察に逮捕されるんじゃないのか。これはどう考えてもまずい。気を落ち着けるために、そっと立ち上がりパソコンデスクに戻って缶ビールを飲んだ。  しばらく息をひそめていたが、騒ぎ出すようすはない。ベッドにあおむけになったんだから天井は丸見えのはずなのに……。足音を消した僕は腹ばいになってそっと単行本をずらした。  しまった! ばっちり目が合った!  急いで塞いだ。その姿勢でじっとしていたが下の部屋は静かなままだ。まてよ、と思う。床と天井が一枚板なんてありえない。上の部屋から足音がしたことなどないし、そんな作りのワンルームマンションなんてありえないだろう。  またそっとずらしてみる。今度は胸に、開いて伏せた文庫本が乗っている。ショートボブだろうか髪は短めだ。うりざね顔のかわいい女性だ。その右手がぐわっとこっちに向かって伸びた。見つかった! 目を真ん丸にしたまま僕は動けなかった。 「ああ、ロミオ…どうしてあなたはロミオなの?」  読み始めた文庫本で顔が隠れた。  ひょっとしてこっちが見えてないのだろうか。『月の満ち欠け』をどかした僕はまじまじと見た。読んでいる本は『ロミオとジュリエット』とは関係なさそうだ。ごろりと右を向いた女性がお尻を掻いた。短パンだからお尻の丘陵が丸見えじゃないか。贅沢すぎる。
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