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母は体調を崩すと体臭にあらわれる人だった。胃が悪いのか体の内から匂いを発して寝込む。心を弱らせやすい人で、体の方がそれに影響を受けるのだ。
――お父さんに棄てられたらどうしよう。
不安げな母の言葉を、匂いと同じく疎ましく感じていた。親類のない母は必死に父との縁にしがみ付いていた。
私が就職を機に家を出たのが数ヶ月前。もう今更不安もないだろうと考えてのことだ。だが、その考えは安易なものであった。
父が体を壊した母を家から追い出したのだ。
急いで帰省し家族で暮らしていたマンションの一室に入るなり怒った私に、父は慌てるでもなく言った。
だって、臭いんだよ――と。
「それだけのことで!?」
「同じ建物の中だ」
追いやったのは同じマンションの別の階の部屋だという。最も遠い部屋。
母に対して薄情な人だというのは昔から感じていた。懸命に追いすがる姿を冷めた目で見る人だったから。
父を強く睨んで部屋を出る。エレベーターは漏水のため故障していた。これでは母は気軽に降りてくることも出来ない。階段を駆け上って着いた母の部屋の玄関の外、そこには水溜まりが出来ていた。ここも漏水……? と思いながら呼び鈴を押す。
『……はい』
くぐもった声だった。
「良かった、起き上がれるんだね。開けてくれる?」
まずは母の看病だ。よほど体調が悪いに違いない。だって、
(こんなに酷い匂いがしてる)
そう思ってから、その考え方の異様さに初めて気づいた。いくらなんでも扉を隔てているのに匂いがするのはおかしい。生ごみや汗の匂いでもない「具合の悪い母の匂い」としか呼べない臭気が、きつく漂ってきていた。
――だって、臭いんだよ。
みんな耐えかねてしまったのだと父は言っていた。隣室もその隣も、下の階の人もその下もみんな厭な匂いがすると訴えていなくなってしまったと。見れば、隣室の戸の前にもとろりとした水溜りが出来ていた。
『開けられない』
「えっ……?」
『こんな姿、見せられない』
哀しそうな声だった。ずる、ずる、と重くぬめった音をたてて母が扉から離れていくのを感じた。
なんだ、本当に気付いてなかったのか――と父は言った。
「あいつには身寄りがない。それは、人として生まれてこなかったからだ」
草臥れきった顔だった。
「川の底か沼の近くか……もう憶えていない。いつの間にかあいつは俺の人生に滑り込んで妻になっていた」
一瞬の光景だけが脳裏に蘇るのだという。泥の中に手を伸べる自分と、その手を取る何かの姿。それは全身に泥を纏って腐臭を放っていた。
「お母さんが人ではないなんて……そんなことを言うつもり?」
何を言うの、ばかばかしい。……何を言うの。
「弱ると形を保てずに崩れるんだ。ぐずぐずとしたそれがあいつのいた泥の匂いのようで」
とても不快なんだ、と壁に染みを作る水を睨んだ。
……あれはきっと、水ではないのだろう。
「それでも一緒に暮らしてきたじゃない」
「お前がいたからだ」
父ははっきりと言う。
「お前のことは可愛いよ。だって俺の子だもの。どんなものから生まれてきたとしても、お前には俺の血が流れてる。だけどあいつを家族だとはどうしても思えない。俺の家にーー同じ空間にあいつがいると思うだけで、耐えられないんだ。だから、もういいじゃないか」
父だけを頼りに地上に這い出した母は、捨てられないよう顔色を窺ってひたひたと張り付く。その母を捨てる機会を父はずっと求めていた。
「お前が出て行ったから」
もう夫婦として生きなくてもいいじゃないかと思った。
「お前が出て行ったから」
娘がいることで安堵を得ていた母は不安に苛まれ追い詰められた。もう臭気を身の内に隠すことも出来ないほどに形は崩れてしまっている。
……あぁ、あの日。
(お母さんの匂いだ)
そう思った昔の自分。腐った魚がドブ川に沈むのをランドセルを背負って見ていた。生き物の溶けた泥の饐えた臭気。それが今、一番遠いはずのあの部屋から。
「もう、この部屋にまで匂いが」
嫌、と声がした。この部屋にいないはずの母の声。
――私を見ないで。離れないで家族でいて。
どこから聞こえてくるかも分からぬ声に、父は動じることもなく答える。
「見るべき姿すら保ててないくせに」
――ちゃんと、戻るから。
「俺はお前を妻だと思いたくはない」
……いや。
不安を念入りに植え付け傷つける父。それでも私を振り返る顔は娘を慈しむ親の表情だ。
「こいつの後始末は俺がつける。お前はもう帰るんだ」
(いや……)
――世界が揺らぐ。人でなかった母と人でなしの父。
であれば私は何なのだ。
強い不安に襲われる。恐怖に絞られて苦しくなる。息を吸った。吸い込めるだけ吸い込むと、体が膨張したような感覚を覚えた。
「……嫌だよ、ねぇ」
縋る声は私のもの。手を伸ばすと父が顔を引きつらせた。身の内の澱みが恐怖に絡め取られて引きずり出される。
ああ、と声と共に息を吐いた。
それは疎ましくも身に馴染む、汚泥のような異臭を放っていた。
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