わたしの聖域

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わたしの聖域

 わたしの聖域を犯すことは、何人も許さない。  汚れたこの世界の中で、聖域はわたしが唯一安らぎを得られる場所だった。  今の世の中は汚きたなすぎて、わたしには息をするのも辛かった。だから聖域の外に出るには、それなりの装備が必要だった。聖域のなかで許される軽装では、外の世界を歩くのは酷きびしすぎたのだ。  装備を整えるのも億劫で、最近休日は聖域から一歩も出ないことが続いている。  そんな休日に、ふと思うことがある。いつからこんなにも汚れた世の中になってしまったのだろう。わたしが幼い頃は、まだそれは酷くはなかった。  学校から帰るなり、外に遊びに出掛けていたものだ。公園だったり、草むらだったり、田んぼだったり。虫やカエルや鳥といった生き物を見つけて、触ることも簡単だった。  人の集まる場所も好きだった。学校や図書館で友達と騒ぐことも多かった。  だが年齢を重ねるにつれ、外の世界の現実を知り、それらは次第にわたしにとって汚れとなっていった。それでもまだ実家にいた頃はよかったのだ。わたしが聖域にしか生きられなくなったのは、仕事のために田舎を離れてからだった。  都会は人が多く、田舎以上に汚けがれで満ちていた。わたしには、そんな都会で生きている者たちが信じられなかった。さして特殊な装備もなく、外の世界を歩く人々はわたしにとっては感染者でしかない。  全員が全員じゃないにしろ、きっと病気を持っている者も多いだろう。わたしは汚れて病気になるわけにはいかない。聖域に入るには汚けがれを帯びるわけにはいかないのだから。  わたしは外界から帰ると装備をとくなり、必ず清めの儀式を行うことを欠かさなかった。そのお陰で今もまだ、わたしの聖域は犯されていない。  そうやってひとり汚れを排除し、聖域で暮らすわたしの元に、ある時一人の来訪者があった。それは田舎で暮らしているはずの母だった。 「久しぶりね」  インターフォンの画面越しに映った母の姿に、わたしは言葉を失った。都会に出てきてからは、装備のまま帰るわけにもいかず、自分の現状を知られたくなくて、めっきり実家から足が遠退いていたのだ。申し訳程度に連絡を入れるのみで、両親も特にそれを責めたりはしなかった。なのに連絡もなくいきなり訪ねてくるなんて。  ここまで来るのに、母は汚染された外界を通ってきたはずだ。  母はチュニック姿だった。わたしのような装備もなく、田舎からそのまま出てきたのだろう。となれば、母もまた外界の汚れに感染している可能性は捨てきれなかった。  汚れを帯びた人間を家の中に招き入れることすら躊躇したが、遠方からわざわざ会いに来てくれた母を、このまま追い返すわけにもいかない。  わたしは大きくため息をつくと、母を招き入れる算段をした。まず、清めの儀式は欠かせないだろう。汚染された服も着替えてもらわなければならない。  だが訪ねて来た相手にいきなりそれを強要して、素直に受け入れてくれるだろうか。  どうも外界で生活している者たちにとっては、わたしの行う清めの儀式はどうも奇怪なものうつるらしい。ただ汚れを水で洗い流すだけなのに。そう実感したのはほんの一ヶ月前。この住まいに幼馴染のミキが訪ねて来たからだった。  都会に用事があって田舎から出てきたミキは、我が家に一夜の宿を求めた。その条件として、わたしはミキに儀式を受けることと、聖域の規則に従うことを約束させたのだ。ミキは泊めてくれるならと条件をのんだものの、聖域の規則に始終不思議そうな顔をしていた。  だから母の目にも、わたしの儀式が奇怪なものに映る可能性はあった。だからこそ、論理的にごく自然にどう儀式に誘導するかが重要だった。 「早く開けてちょうだい。トイレに行きたいの」  考えをまとめきる前に、母から催促の言葉がとんだ。渋々ドアを開ければ、母は言葉を交わす暇もなく、家の中に上がり込んできた。  汚れを帯びたままの服を身につけたまま、トイレも素通りしてわたしの聖域の中心部へと迷わずまっすぐ進んでいく。 「待ってよ、母さん。いくら母さんでも勝手は許さないわよ。これ以上進むなら、服を着替えてからにして!」 「なんでわざわざ着替えなくちゃいけないの」 「母さんは、わたしが外の汚れで病気になってもいいっていうの?」 「病気になるもなにも、そんなこと言うあなたの方が病気よ」 「何よ! わたしの家なんだからここのルールには従ってもらうわ!」 「ミキちゃんのように? ミキちゃんにあなたのことを聞いて、おかしいと思ったのよ。でもこれではっきりしたわ」  母は、聖域の中心部を隔てるドアの前に常備しているウェットティッシュと消毒アルコールに目をやった。それはわたしが中心部に入る時に欠かさず使用している愛用品だった。 「あたなは強迫性障害、不潔恐怖症なのよ」  そう言って母は汚れを帯びたままのその服で、消毒もせずに、その特別な部屋の中へと足を踏み入れた。それを目にした瞬間、腹の底から込み上げてきた熱がわたしの全身を駆け巡った。 「退いて!」  ほぼ反射的に、母の身体を部屋の入口から引き剥がした。  汚い。汚い。汚い。一瞬でも母が足を踏み入れたことで、わたしの特別な聖域は汚されてしまった。発狂しそうなほどの嫌悪感で総毛立った。  なんでこんなにも、汚よごれることが怖いのか。なんでこんなにも、母が汚きたないと思うのか。  とても息苦しかった。ただ部屋に入っただけなのに、外を歩いてきたそのままの服でそこを侵食されたことが許せなかった。  今まで大切に守ってきた聖域だったのに。見えない汚れが、恐怖となってわたしを支配していた。
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