欠落

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欠落

ぽろぽろと、こぼれてゆくのです。わたしの大切なものが。わたしの一部が。とりとめもなく流れ出していくのです。とめることはできません。こらえることなどできません。一歩一歩、歩くたんびに落ちてゆく、わたしのかけら。どうやって拾い集めればよいのでしょう。 生きるなんてとても簡単なことでしょう。酸素を吸って二酸化炭素を吐く。心臓を動かす。食べる。寝る。ただそれだけのことでしょう。努力なんていらないじゃない。それなのにああ、どうしてこんなに苦しみもがいているの。他の人はみな普通に生きているのに。楽しく笑い、おいしいものを食べ、愛する人を当然のように手に入れて、子を産み、親となり、老いてゆく、それなのに。 私だけ。この世界で私ひとりだけが、常識から外れているのです。 ぽろぽろ。ぽろぽろ。呼吸をするたびに剥がれ落ちる。ぽろぽろ、ぽろぽろ。心臓を動かすたびこぼれ落ちる。これは一体、何なのでしょう。 最近私は寝不足です。人と話すと疲れます。私は昔から気が弱く、自分に自信がなかったものですから、たとえいやなことをされてもそれを咎めることができませんでした。いつもまわりに合わせていましたし、それが優しさだと思っていました。 私なんかが人様に怒るなんて、きっと神様に笑われてしまう。そう思って、涙も怒りもこらえて、いつも笑っておりました。だけど、どうして人はその優しさに気づかないのでしょう。 私がいくら優しくしても、他人は私に優しくしてはくれないのです。私の言動に怒り、私の行動を蔑み、私を愚かだと罵ります。何様のおつもりでしょう。私が何も言わないのをいいことに、自分がえらいと勘違いして、ああしなさい、こうすべきだ、どうしてこうしないのか、もっと考えなさい、と、まるで神様にでもなったかのように言うのです。 一体いつ私が、ご意見などを求めたでしょう。理解してほしいなどとお願いしたでしょう。勘違い甚だしいわ。そういうことが続いたものだから、私、なんだか疲れちゃって、今日もずうっとぽろぽろ、ぽろぽろと、剥がれ落ちてゆくのです。 歩くたびに後ろには、こぼれ落ちた花びらのようなものが広がって、ああきっとこれが、私の一部なのね、と、乾いた笑いが込み上げます。心、とか、感情、とか。きっとそういう類のものなのでしょう。 いくら傷ついた顔をしても、他人は理解してくれないのです。自分はいいことをした、正しいことをした、と、確固たる意志を持ち、踏ん反り返っているのです。私を地獄の底に突き落としておきながら、まだ自分を救いの神だと思っているのです。人にされたらいやなことは自分もしない。それだけの、子供でもわかるようなことを、なぜ人は分からないのでしょう。 私、疲れてしまいました。考え込んでも無意味だから、考えないことにしました。笑わぬ、泣かぬ、それを繰り返していくうちに、またぽろりと私の一部がこぼれ落ちます。私には何か、欠落しているものがあるのでしょうか。 最近はもう、どれだけ罵られても何も感じなくなりました。ああ、またか。また愚かな人間が愚かなことを言うのだ。自分独自の意見のような顔で、他の者と変わらぬ平凡なことを言うのだ。そう考えたら、おかしくなって笑います。だけどその笑みは、楽しいからではありません。感情と表情が一致していないのです。 ぽろり、と、今日も音がします。 私の何かが、落ちる音。
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