朧月夜

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朧月夜

その夜のことを、わたしは一日として忘れたことがございません。 「見ろ、朧」 夜行列車に揺られながら、あなたはわたしにそう言いました。ぼんやりと瞳だけを動かすと、黒に支配された空に、ぽっかりと穴があいておりました。 「月が、きれいだ」 ひとりごとのようにそう言うのは、わたしの兄でございます。妹のわたしが言うのも少々なんではございますが、兄は、雪のように白い肌と、宝石のように美しい瞳を持つ美しい男でございました。兄が歩くと、まるでどこぞの異国の王様のようで、わたしの狭い田舎町では誰しもが振り返り、崇め、羨望の眼差しを向けるのです。 わたしはそれが何よりも誇らしく、同時に、恥ずかしくもありました。わたしも、他の女と比べたらまぁ、かわいらしいと言われることもなくはないのですが、兄の隣に並ぶと、貴族と平民、まるで同じ血を分けたとは思えない、みすぼらしい女に成り替わるのです。だから、兄に言い寄る女性は蟻のようにおりましたが、恋人の肩書きを手に入れた女は、もって半月。一定期間が過ぎると、自分の醜さを呪い、泣きながら兄の元を去っていくのでした。 そんな、荒地に咲く一輪の百合のようだった兄は今、死人のように色のない肌と、紫色の唇と、夜と同じ色の瞳を持ち、金色に輝く月を眺めております。つい先ほどまでは、会話もなく、死の深淵を彷徨うように、じぃっとつま先を見つめ、ぶるぶると全身を震わせておりました。それなのに今は、すべてを諦めたように清々しい表情で、「月がきれい」なんて言うものですから、逆にわたしは不安になってしまったのです。蛇の住処にも似た暗い穴に引きずり込まれていくような。そんな予感がよぎります。 遠くにともる篝火が、恨むようにゆらゆら、ゆらゆらと踊っております。わたしたちの罪を責めているのです。わたしたちの邪魔をする両親を、この手で闇に葬り去った、わたしたちを、地獄へ、突き落とそうとしているのです。 「このまま、遠くへ逃げてしまおうか」 そんなことを性懲りもなく言う兄に、わたしの心は散り散りに乱れます。ああ、お兄様、お兄様。わたしは列車の中だということも忘れ、両手で顔を覆い、えんえんと泣きじゃくりました。兄は何も言いません。きっとわたしの声など、もう届いていないのでしょう。兄はもう、壊れた人形のように、口元に笑みを浮かべるだけ。 わたしの背が、あと、十センチ高ければ。わたしがあなたの妹でいられたなら。あなたより早く生まれていたら。きっと、あなたを救えたのに。 あの頃のわたしは愚かにも、愛が強靭な盾となると思っておりました。揺るぎないこの覚悟が剣となり、あなたをあらゆる苦しみから守れると、愚かなわたしは信じておりました。 列車に乗客はふたりだけ。わたしとあなたの、ふたりだけ。 ゆっくりと死に向かう列車に揺られながら、わたしは静かに目を閉じるのです。兄と結ばれる、夢を見ます。
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