声明

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声明

きっとこれが最後の声明になると思いますので、思っていることを、洗いざらい吐いてしまおうと思います。 私はずっと、自分がここにいるべきではないと自覚しておりました。ですから私は本日、この場所を去ろうと思います。まぁ、優しさからなのか、義務だからなのか、引き留めてくださった方々も、少なからずおりました。その反面、私のことを多少なりとも理解してくださる方は、「それがいいわ」と、うなずいてくれました。どちらも、予想していた言葉でした。 この場所に来た時から、私はずっと、心の中に雲のような、もやっとした灰色のものを抱いておりました。どうしてここにいる人たちはみな、暗い色の瞳で、不細工な愛想笑いをし、理不尽な叱咤にも文句一つ言わず、頭を低く下げているのだろう。 私も、明らかにおかしなことで注意されたことがございまして、そのことについて弁明しようとしたところ、隣にいた上司に、慌てて引き留められました。こういう時は黙って謝ればよいのだ、と、その方は言いましたが、あれはどうにも納得がいきません。誤解があるなら、それを解くのが、人として当然のことじゃありませんか。それなのにここにいる人たちは、なぜへらへらと笑っていられるのでしょう。理解の域を超えております。 私の友は、とても美しい女性でした。長く伸びた黒い髪はどこか上品で、肌も、瞳も、鼻も、唇も、憎たらしくなるくらい素敵で、私は彼女に焦がれておりました。私があんな容姿だったら、毎日かわいらしいお洋服を着て、街を我が物顔で闊歩するのになぁ、なんて思っておりました。 そんな彼女は、当然この場では浮いていて、まるで汚い田舎町に女神が降り立ったような、違和感が常につきまとっておりました。彼女ならもっと華やかで、お似合いの場所があるはずだ、こんな地味なところにいちゃもったいないわ。だけど彼女は、あっけらかんとして言いました。 「ここは確かに地味で、毎日やりがいも生きがいもないわ。だけど私、他にしたいことなんてないもの」 なんという言葉でしょう。私は納得がいきません。 だって、若さも美しさも永遠ではないのに。今しかできないことがきっとあるのに。人目に触れぬ美しい花に、一体何の意味があるのでしょう。人知れず枯れてゆく、その時になって初めて、もっと人前に出たかったと、悔やむのではないですか。私のような醜い女が手に入らないものを、あの子は持っているのに。人は、気づかないのでしょうか。 周りを見渡すと、そこにいる女性は誰も、お化粧をしておりません。(美しい友は別ですが)きっと昔は、もう少し容姿を気にかけていたのでしょう。ですが、年代が上になるにつれ、肌の荒さにも、目の小ささにも、傷のように刻まれたしわにも、異性の視線も、気にならなくなるようです。 そのくせ、結婚はなんなくできてしまって、旦那の悪口を言うのです。旦那が浮気をした、優しくしてくれない、昔はかわいいと愛でてくれたのに。なんて。 美しくなる努力もしていないような女が愛でられると、本気で思っているのでしょうか。そんな、醜い女より、若くてかわいい、化粧もきちんとして、服もきちんと選んでいる女の方に行くのは、当然じゃあありませんか。私はその旦那さんが憐れでなりません。 またある友は、毎日クタクタになるまで働き、休日だっておかまいなしに仕事をしているので、気遣って、話しかけたことがありました。 「あなた、そんなに働いてちゃあ疲れるでしょう。お休みの日は何をしているの」 「休みの日は、一日中寝ているよ。それが一番幸せなんだ」 あら、よしてください。そんな、おじいさんみたいなことを言うのは。あなたまだ、二十五じゃありませんか。若さなんて一瞬ですぎさるのに。やろうと思えば、なんだってできる。行こうと思えば、どこにだって行ける。あたりまえだから、その価値に気づかないのかしら。 春には桜が咲きます。夏にはおいしい果実があります。秋にはもみじが美しく、冬には雪だるまが作れます。 こんなあたりまえのことに、ここにいる人たちは気づかないのです。 忙しさに追われ、窓の外を見ることがないからです。「川沿いの桜がきれいだった」とつぶやくと、「桜なんて咲いていたのかい」なんて、びっくり仰天することを言います。とんでもない、この人、難しいことはできるくせに、こんな些細なことにも気づかないなんて、とんだ愚か者ではないかしら、と、思いました。 四季の移ろいにも気付かぬ。やりたいこともない。そんな風に日々を過ごして、まあ、安定はしているのでほかのどこにも行く気力もなく、そうこうしているうちに、十年、二十年と過ぎていくのですね。大変恐縮ですが、私には、それがとてもおそろしく感じます。 人は、死んだら終わりなのです。人生は、たった一度きり。やり直しなどききません。あたたかい海の中にたゆたうよりも、日々変化し、波風たなびく海流の中に巻き込まれていく方が、意味のある人生だと私は思います。別に、理解していただかなくてもかまいません。あなた方が悪いとも思っておりません。 ただ、私は嫌なのです。何の目的も持たず生きることが。ただぼんやりと年老いていくことが。 ですから私は今日ここで、この場を去ろうと思います。 今までお世話になりました。 どうかもう、連絡してこないでくださいませ。
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