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玄関のドアが音を立てた。
「ただいま」
と健治の声が聞こえ、私は、リビングの扉を開けて声を掛ける。
「おかえり、ゴハン食べる?」
「ん、もらおうかな」
「ちょっと待ってね。お肉焼くだけだから」
「じゃ、着替えて来るよ。風呂洗った?」
「まだ、お願い」
「了解!」
キッチンに入って、帰って来てから直ぐに下味をつけて置いた豚肉を焼き始めた。キャベツの千切りをお皿に盛って、焼き上ったショウガ焼きを乗せる。付け合わせにほうれん草の白和えと野沢菜漬け、お味噌汁は白和えで余った豆腐とワカメで、ご飯をよそえば上出来ね。
作った料理をテーブルに並べ終わった頃に、お風呂掃除を終えた健治がリビングに入って来た。
「いい匂い、急に腹へった」
と言って笑う。
その笑顔を見た瞬間に寂しいという思いが、心にひとつ落ちる。
切ない思いを隠ししながら何でもない風を装って「早く食べよう」と声を掛けた。
「いただきます」「美味しいね」「ごちそうさま」普段の生活の中の何気なく口にしている言葉が、こんなにも温かく大切なものだった。
「美味かった、ありがとう」
”美味かった”と言われて、”また今度作るね”と言えずにいた。その代わりに「ん、良かった」とだけ言った。
寂しいがまた一つ、落ちる。
いつまで続くのかわからない脅威で、潰れそうになった私を解放してくれようと健治は私のために離婚しようを言ってくれた。
それなのにまだ、強くなっていない私が健治に縋るような事はできない。
この先、寂しい気持ちがいっぱいになっても言えない。
「……今日、離婚届け出して来た」
「ん、わかった」
また、ひとつ落ちてきた。
寂しい。
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