誰が為、君が為

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 あるいはもうそんなことさえ分からぬほど耄碌してしまったのだろうか。もしそうなってしまったのだとしたら、原因は他でもない妲己自身であるのだろうけれど。 「……ああ、すまぬ、妲己」  やがて。何拍もの後、男はどこか緩慢に返事を返してきた。 「聴こえてはいたが、聴いていなかったのだ。実にすまない。どうしても、思い出してしまうことがあってな」 「何をです?」 「月を見ていたのだ。酒の池に映る月、実に雅なものとは思わぬか」 「はあ……」  確かに、風流ではある。新たなる王朝を打ち立てんと進軍してくる連中が迫りくる中、やや呑気がすぎると思わないでもなかったが。  まったく、あの男ときたら己を太子発などと――傲慢極まりないではないか。面倒な騒ぎが収まったら、奴をどう処刑してやろうかと思えば少しは気が休まるというものである。なんせこちらの兵力はゆうに七十万、あちらは一万どころか五千もあるかどうかも怪しい程度の戦力。殷の軍勢の大半が奴隷を使っての寄せ集め部隊どいえど、武功を上げれば褒美をよこすと言ってある以上奴隷連中も必死にはなってくれるだろう。多少精鋭が少なかろうが、この数的優位はそうそう覆るものではないはずである。  姫発も呂商も、このどんちゃん騒ぎが落ち着いた後は丁寧に、それは丁寧に責めてから見せしめのように殺してやるつもりでいた。紂王に、殷に――否、絶対的権力を持つ自分に逆らった報いを派手に受けて貰わねば気が済まない。自分は全てを手にした。それは誰からも奪われるはずがない、絶対的な権力という名の力。まさに神にも等しいその力を、脅かそうなどと考えるだけで罪なのだと知らしめなければ。  とりあえず、炮烙(ほうらく)にかけてやることだけは確定である。猛火の上にかけられた銅の丸太の上を走り抜ければ無罪放免というものだが、勿論実際には渡りきったところで無罪にしてやるつもりなど全くない。むしろ、炎の上に落ちても簡単に死なないように工夫してやらねば済まなかった。全身火傷で苦しむところを、今度は蛇の入った盆に落としてずたずたにして殺してやるのが楽しいのだから。そういえば、最近は蠆盆(たいぼん)の蛇達にもすっかり上質な肉を与えられる機会が少なくなってしまっている。そろそろ、奴隷の中で一番役に立たない数名を落としておくべきだろうか。  まあ、そんなことを考えるのは、あくまでこの“ちょっとした騒動”が終わってからにするべきこと。今は、一刻も早く蠅どもを踏みつぶすことを考えなければいけない時であるはずだというのに。
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