誰が為、君が為

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「何をおっしゃるのです。わたくしは、今ここに居るではございませんか。わたくしは遥か彼方で輝く月ではございませんわ。こうして、触れることも抱き合うこともできるただ一つの存在として、紂王様のおそばにありますのに」 「左様。しかし……それでも儂は、おぬしが遠いのだ。肉の器に触れることはできる、それでも……」  そっと、男の手が妲己の頬に伸びる。出逢った頃よりも、随分と皺が増え折れ曲がった指だった。妲己はされるがまま、頬を撫でる夫の手に全てを委ねた。そして。 「それでも、心は夢幻かごとく遠い。妲己。おぬしは、誠の意味で儂を愛してなどおらぬであろう?」  冷水を、浴びせられたような気になったのだ。  一体、彼は何を言い出すというのか。こんなにも彼に寄り添い、苦楽を共にしてきたというのに。当たり前のように妲己の言葉を全肯定してきた男が、この晩年になって自分の想いを否定してくるとは夢にも思わなかったことである。 「な、何を、仰るの、紂王様……?」  まさか、この土壇場で、全てが壊れる結果になるのか。恐れ戦く妲己に、そうではない、と紂王は首を振った。 「良い。とうに分かっていたこと。おぬしが愛しているのは儂ではなく、儂の権力であろうということは。……だが、それでいい。それでもいいのだ。儂はそれが分かっていた上で、そなたを隣に置いた。そなたを愛した。美しく、大人の女としての色香を存分に纏いながらも子供のように無邪気に笑うそなたに魅かれたのだ。例え……そなたを隣に置くことになった結果、このような事態を招いたと分かっていても」  何も、言うことができなかった。  妲己は思い出す。自分を娶るまで、彼が殷の歴代の帝の中でも最も頭脳明晰であり、民を思いやる名君として知られていたという事実を。 「……わかって、らっしゃったのですか」  その彼が。己が妲己に命じられることの意味を、妲己の頼みを聴くことの意味を、それが過剰な贅沢や我儘、暴虐と呼ばれる類であることを理解していなかったはずがない。  ああ、どうして今まで気づかなかったのか。  彼は、自らの名声を落としてでも――妲己の愛を得ることを選んだのだということを。 「全部、わかってらっしゃって、何故」 「それでも、おぬしを愛していたからだ。それ以外に何がある?」 「でも、わたくしは……」
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