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愛していなかった、などとは言えない。言うことは許されない。だが実際、妲己が本当に愛していたのは自分自身だ。紂王に愛される己自身、そしてその紂王が持ちうる世界の全てと言っても過言ではない権力の数々。彼本人に、妻として正しい愛を注いでいたとはお世辞にも言えなかった。それでもいいと思っていた。帝の妻になる自分には、あらゆるものを自由にする権利が与えられてしかるべきと思っていたからだ。
紂王は何もわかっていないとばかり思っていた。妲己に愛されるために、己がしてきたことがどのような行いであるのかも。酒池肉林、蠆盆、炮烙、民への重税に殷族以外の民族達への迫害も全て。さながら洗脳されるまま、善悪も何もわからなくなってしまっているとばかり思っていたのに。
「わたくしを娶らなければ。殷の支配は、紂王様の世界はどこまでも盤石なものだったはず。そうは思われないのですか?」
自分は悪くない。妲己はただ、己に許される幸福を享受しただけだと心底思う。
それでもだ。紂王には、妲己を責める資格があるだろうと考えるのもまた事実で。
「思わない。名君であった儂より、今の儂の方が幸福だと断言できよう。例え……武王、新たなる王朝の王に首を斬られることになろうとも」
「え?今なんと……」
「良い、忘れてくれ。ただの占い師の言葉よ。……ただ、全てが終わる前に、おぬしとこうして二人で話したかった。それだけのこと」
真っ直ぐに妲己を見つめる男の眼は、老いてなお曇ってはいなかった。ただ純粋に、どこまでも残酷な愛だけを見つめていた。
「儂の妃となってくれてありがとう、妲己。愛しているぞ」
それから、ほどなくしてのこと。
圧倒的優位と思われたはずの殷は、牧野の戦いにて敗北。紂王と共に、妲己もまた処刑されることとなる。
彼がどこまで正気であったのか、未来を見通していたのかはわからない。
確かなことは、一つ。
時に愛は――世界をも狂わせることができるのだ。
それは繰り返された歴史が、証明している。
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