3人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
誰が為、君が為
「わたくしを責めないのです?」
まるで静かな湖畔のごとし。一時は連日連夜のように繰り返された宴が今は嘘であるかのよう。酒が満たされたままの池は、静かに水面に満月を映すばかりとなっている。揺蕩う水面に映りこむのは天下絶世の美女の姿。ああ、小宵もわたくしは美しい、なんてうっとりした時もあっただろうか。今は嗅ぎ慣れてしまった酒の匂いと、手入れが行き届かないために若干のカビ臭さが混じった芳香に眉を潜めるばかりである。
本来ならば、朝歌にこもってのんびりと月見などしている場合ではないことくらい、妲己にも分かっていた。今は亡き西伯侯・姫昌の息子である姫発が後を継いで、よもや本気で殷を倒そうなどと目論むとは当初夢にも思わんかっことである。姫昌を幽閉した最中、彼の長子である伯邑考を殺して、その羹を飲ませるという手間暇までかけて心を折りに行ったというのに、我ながら見誤ったものだ。本人だけではなく、その次男の心まで念入りに折に折っておかねばならなかったらしい。
いや。もっと手を打っておくべきことは、他にもあっただろうか。あの呂尚だとかいう、どこぞの馬の骨ともわからぬ軍師。あいつが余計なことを言って、姫発をたきつけるような真似をしなければ。国中の方々に恨みを買うような真似をしていたことはわかっていたけれど、それがこんな大きな形でわが身に返ってくるとは、まったくもって思いもよらなかったことである。
面倒くさい。いや、むしろ面倒くさいことを全て投げ捨ててきた結果がこれというのはまさに皮肉だ。己はただ、王の妃として最高の栄華を欲しいままにし、好きなものを好きなだけ嗜み、美しいこの世の全てをわが物として謳歌していたかっただけのこと。この世で最も麗しい自分にはその権利がある、その権利は他ならぬ、隣の帝が認めてくれたはずであったというのに。
「……紂王様?わたくしの声が、聞こえてらっしゃらないのです?」
先ほどの問いへの返事が返ってこない。
かつて名君と呼ばれた筈の男は、老いを感じさせる茫洋とした眼でひたすら酒の水面を見つめるのみ。
殷という国の力が最も強かった頃を、思い出しているのだろうか。今更そこにある酒を贅沢に飲みたいと考えるほど愚かな男ではあるまい。そもそもそこに満たされたまま放置された酒を老年の男ががぶがぶと浅ましく飲んで、腹を壊さぬ道理はないのだ。
最初のコメントを投稿しよう!