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 2020年8月末。神奈川県相模原市立東南(たつみ)中学校では、延期とされていた2年生修学旅行の中止を知らせる手紙が全校生徒に配布され、それを受け取った宮内彩(みやうちあや)は激しく落胆した。それまでも修学旅行が中止になるだろうということはなんとなく予想していたが、「それでも、もしかしたら」という一縷(いちる)の望みを心のどこかに抱いていたことは否めなかった。しかし、このように学校からの手紙という形で生徒全員に配布され、その紙面に印刷された「残念ながら中止することとします」という文言を目にすれば、彩ももはやそれを覆らぬ決定として受け入れるより他なかった。  彩は東南中学校2年2組の学級委員だ。小学校の頃から、彩は学校の役員や行事の実行委員に積極的に就いた。企画を立案して、皆と一緒に行事をより充実させることに心からやりがいを感じていたし、そのような立場にいることが何といっても楽しかった。だから2020年の今年、中学2年生になった彩の脳裏に真っ先に浮かんだのは修学旅行だったし、必ず修学旅行の実行委員に立候補しようと固く心に決めていた。  それが、春休みが明けて4月。新学年になって早々、数日(かよ)ったところで緊急事態宣言の発令により学校は休校になり、登校できるようになったのは5月も末のことだった。それだけではない。部活動は当面の間活動休止。6月の体育祭は生徒の親も含め来場者を一切入れない無観客の状態で午前中のみの実施。一日校外学習は中止。彩がとても楽しみにしていた9月の校内合唱コンクールの中止も発表された。そして夏休み前の修学旅行延期の告知。2020年の学校行事の中止縮小延期の嵐は、仕方のないこととはいえ全国の学生の意気をくじき、その心を散々に痛めつけた。  しかもこれらの事態にも関わらず、彩は自分の抱える怒りのやり場を見つけられなかった。なぜなら自分を含めた全国の小中高生たちをこのようなやり切れない事態に追い込んだのは目に見えない驚異のウィルスで、意思のない、否、この生物といえるかすらわからぬ手ごたえのない微小の物体は、怒りをぶつけるにはあまりにも表情がなく、また現実感が希薄だった。彩は不満よりも怒りよりも何よりも、ただ悔しかった。自分の中2の1年が無残にも空費された気がしてならなかった。そうして彩は「なぜ私たちが?」という答えのない問いを今年何十回となく頭の中で唱えてきたのだ。  それらやり場のない気持ちが重なった上でのこの事態だった。2週間に短縮された夏休み明け初日に配布された修学旅行中止の手紙。その印刷された文面に目を落とした彩は顔色を変えた。なぜなら去年までの自分は、中学2年生になれば修学旅行に行くものだと、至極当然に考えていたからだ。教壇で担任の教諭松重正徳(まつしげしょうとく)が何か慰めの言葉を口にしているようだが、混沌とした彩の頭に言葉は意味を為さなかった。  5月末の休校明けの時点で、修学旅行は一体どうなるのかという話は生徒の間でも出ていたし、夏休み前の修学旅行延期の通知の際には松重から「中止も覚悟しておくように」という話が学級に向けてされていた。  そのような経緯があっての修学旅行中止の通告は、彩も事前に覚悟していたことだが、それでもなお、彼女は落胆を抑えられなかった。体育祭、校外学習、合唱コンクール、そして修学旅行。これらの行事をひとつとして自分たちは通常通り計画し作り上げ、実行することができたのだろうか。 ――なぜ私たちが?  彩は目を閉じ、今日何度目かのこの呪いの言葉を思い浮かべ、席で一人静かに肩を震わせた。その傷心と失望と無念の混じった涙を、立石楓(たていしかえで)がやはり静かに、強い眼差(まなざ)しで見つめていることも知らずに。
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