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第2話
「それで、壱岐巳はどうだった?」
グループワークを行う最中、ぐっと肩を引かれバランスが崩れる。佑月は慌てて手元のコーヒーカップを持ち直し、後へと振り返った。
「戸ヶ崎」
「『先生』だろ」
「先生……後でもいいですか? 今、ディスカッション中なんで」
「ダメ、俺このあと講義入ってるから」
「はあ? ……あ、ちょっ」
作業中であることが、目に入らないのだろうか。戸ヶ崎は佑月の手の中からカップを奪い取ると、颯爽と講義室を後にする。
「……悪い、すぐ戻るから」
「あー……大丈夫、大丈夫。こっちは適当にやっとくから」
「はは、佑月も大変だなー」
苦笑いを浮かべるクラスメイトに見送られ、うんざりとした表情で席を立つ。
「呼んだらすぐ来いよ、佑月」
「なら暇な時に声掛けろ」
「暇な時に声掛けたって来ないくせに……まあいいか。それで、どうだった? 壱岐んとこ行ってきたんだろ」
「どうって……別に、普通に親しみやすい感じの人だったよ」
窓辺のブラインドを下げながら奥の席へと腰かける。聞かれるがまま率直な感想を述べると、戸ヶ崎は意外だとばかりに感嘆の声を漏らした。
「なんだ、佑月は随分と気に入られたな。順調のようで良かったよ」
どこか含んだような物言いに、今度は佑月の眉がピクリと上がる。
「あいつ、整った顔してただろ? 童顔なのに腹筋バッキバキなんだぜ? あんだけ男性ホルモン高かったら性欲やばそうだよな」
「はあ?」
「アッチのデカさは知らんけど……悔しいから、女子生徒は送らないようにしてるんだ」
意地の悪い笑みを携えて、なにを言うかと思えば下らない猥談か。
佑月の眉間に皺が寄る。
「いい歳して私情を挟むなよ」
「いい歳だから私情を挟むんだよ、わかってないなあ」
佑月が席を立とうとすると、戸ヶ崎はおもむろに腕を掴んで引き留めた。息が吹きかかる位置まで距離を詰め、囁くようにそっと耳打ちをする。
「俺としては、冗談でも間違いがあったら困るんだよ。あれはヤバい。俺が女なら、見ただけで妊娠する」
「……っ」
ふっと吐き出された息が、下卑た意図を孕んで頬を撫でた。
──壱岐巳。耳を燻るハスキーな低音に甘い顔立ち。無駄を一切削ぎ落した肉体は病衣服の上からも凛々しく映った。
見るものを魅了する。男の自分ですらそう思うぐらいだ。女性からしたら一溜りもないだろう。
「そんなことより。生徒の個人情報を勝手に流すのはどうかと思うけど、戸ヶ崎センセ」
「俺が? なにしたって?」
「はあ? とぼけんなよ」
机の下で膝を足蹴り、くちを尖らせる。
いくら親族であろうとも、プライベートを晒されることは、けして気持ちの良いものではない。まして相手は受刑者。それこそ間違いがあっては困る。
文句の一つでも言ってやろうかと声を荒らげると、戸ヶ崎はきょとんした表情で首を傾げた。
「俺の名前とか家族構成とか……壱岐さんに伝えただろ?」
「はあ、誰が?」
「誰がって……」
心当たりがないのだろうか。思いがけない反応に虚を衝かれ、勢いが削がれる。
兄や妹、名前のことといい。てっきり戸ヶ崎が伝えたものかと思いきや、違ったのだろうか。それならば、なぜ壱岐が知っていたのか。今回の訪問は仲介業者を挟まず、全て戸ヶ崎が手配したものだ。間に入っているのは刑務所の事務員ぐらいで、共通の知り合いがいるわけもない。
「…………」
戸ヶ崎は気難しげに眉根を寄せ、表情を曇らせる。
「なんだよ」
「いや、実はさ……壱岐にインタビューを頼んだのは今回で三度目なんだ」
ギシッと椅子を揺らし、前に重心を傾けながら額の前で腕を組む。
「一回目は臨床心理学専攻の生徒を紹介したんだけど、コースの途中で音信不通になって終了。二人目も同じ医学部で、リハビリテーションを専攻してた子だったかな。そいつは面談初日に暴力沙汰を起こして、出禁になった」
「は?」
佑月は目を見開き、戸ヶ崎を凝視する。
同じ大学の、同学科の生徒が。暴力沙汰を起こして出入り禁止になっただと。それも、まさかの刑務所内で。
「冗談だろ……」
耳を疑うような内容に、開いた口が塞がらない。
起こしたというからには学生側に問題があったのだろうか。なにかの間違いじゃないのか。
追究が喉をつきかけるが、問い掛けるよりも先に戸ヶ崎が言添える。
「はじめの生徒は知らんけど、後半の子とは話す機会があってさ。なんて言ってたと思う?」
ふっと意地悪く鼻で笑い、一撮の侮蔑を匂わせながら口元を歪めた。
「SNSに上げていた内容を、秒単位で読み上げられたらしい。交友関係とか、ちょっとヤバめな趣味とか。諸々と晒されて手が出ちまったんだろうな。あいつもワザと殴られたんだぜ? 本当やり方がエゲつない」
口に煙草を咥えて、乾いた声で笑う。
今の話のどこに笑える要素があったのか。佑月は艱苦に頭を抱えた。
ソーシャルメディアの普及で、人の承認欲求が肥大化している。気軽に情報を共有できる中、発信する側にもそれなりのリスクが求められるようになった。しかし、そのことを一体どれだけの人が認識しているのだろうか。
今回の生徒もそうだ。自制が利かず、むやみやたらに情報を垂れ流した方が悪い。そう言ってしまえばその通りだ。
しかし、そうであっても。純真無垢な大学生を相手に、少々やり方が劣悪すぎやしないか。
相手を意図的に扇動するやり方は好きではない。
「あんたが持ってくるのは、こんなのばっかだな」
「そんなに喜ぶなよ。連続殺人犯と話せる機会なんて、そう滅多にないだろ?」
貴重な経験であろうとなかろうと。「訳あり」であることに変わりはない。
「まあ、そういう訳でさ。前回の失敗を踏まえて、今回は事前に情報を流していなかったんだ。だから七の家族構成はおろか、名前すら教えてないよ」
「いやおかしいだろ、色々と」
「ははっ、だってお前さ──」
そこで区切られ、佑月はまだなにかあるのかと身構える。
「こういうの好きじゃん?」
佑月の懸念とは裏腹に、戸ヶ崎は声を跳ねらせて言い切った。
こういう面倒な案件が好きなのは戸ヶ崎の方であって、けして佑月の趣向ではない。
ニッと歯を見せて微笑む姿に殺意を覚え、ペンを握り締めるこぶしが震える。
「これが今回の資料な。先に渡さなかったのは、お前の率直な感想を聞きたかったから」
戸ヶ崎はくしゃりと佑月の髪を撫で、ファイルに閉じられた資料を手渡した。
うまく踊らされたようで不満が残るが、結果的に戸ヶ崎の企みは成功したのだろう。この話を先に聞いていたならば、間違っても「普通で親しみやすい」と言った印象は抱かなかったはずだ。
「それならそうと、はじめから言っとけよ」
「それじゃ面白くないだろ」
ニヤニヤと恣意的な顔を浮かべ、戸ヶ崎は言う。
人の課題に関わる内容を、面白いかどうかで判断しないでほしい。
三十代半ばにもなって、まだ仕事と遊びの区別がつかないのだろうか。
「……それで、これが資料?」
はぁーと深く息を吐き出し、乱暴な手付きでプリントを掴み取る。パラパラとページを読み飛ばし、犯行の概要が記された箇所を開いた。
犯行内容は言うまでもなく、極めて残虐なものだった。
一人目の被害者である女性は二十八日間の監禁の末に眼球、肝臓、そして小腸を抜き取られ死亡した。二人目、三人目の被害者も内容は同様。どちらの遺体からも、爪から微量の血痕が検出され、その手中には翡翠などの天然鉱石が握りこまれていた。
「けっこうエグいだろ?」
「…………」
横からのおちょくりには反応を返さず、佑月は食い入るようにして先を読み進める。
犯行が発覚したのは三年前の春。成田市内の派出所にて。驚くことに犯人自ら出頭してきたらしい。冗談だろうと、まともに取り合わない警察官の脚をナイフで突き刺し、その場で現行犯逮捕された。
「──これだけか?」
「そ、これだけ」
「は? おかしいだろ。なんでこんな中途半端なんだ」
十ページにも満たない報告書を前に困惑が隠せない。
被害者の爪から採取された血液の検疫結果は。犯人との関係性は。抜き取られた臓器はどこへ消えたのか。
犯行内容が複雑であるにも関わらず、全てにおいて明瞭さに欠けていた。
「それより……佑月さ、これまたやっただろ」
不意に左手が引かれ、手元から資料が滑り落ちる。
「おい、なにすん……っ」
「医者に診てもらえって言っただろ」
散らばった用紙を追うより早く、戸ヶ崎がその手首を掴み上げた。長い指先が親指の付け根に触れ、縫い目のように赤く走る瘡蓋の上をなぞる。
「……っ、あんたに関係ない」
「お前、ほんと可愛くないな……それに、大学では敬語使えって言っただろ? 叔父さんに言いつけるぞ」
苛立ちから手を払い退けるも、投げられた追撃に言葉が詰まった。個人的な中傷ならまだしも、父の名を出されては反論の余地がない。
「……っ」
ギリギリと険しい顔つきで押し黙った佑月を横目に、戸ヶ崎はどこかやるせない表情を浮かべる。
毎年冬になると、佑月の噛み癖が悪化する。吹雪くような豪雪の日はとくに酷い。あかぎれの上に傷が重なり、白い肌の上で痛ましく浮揚する。
「佑月、俺は……」
あと、どのくらい待てば心を開いてくれるのだろうか。たった一言。助けを求めてくれさえすれば。血でも骨でも、いくらでも差し出してやるのに。
「なんだよ」
「……いや、なんでもない」
その一言が言えずに、もう五年も経ってしまっている。
戸ヶ崎は冷めたコーヒーを胃の中へ掻っ込み、空のカップを片手に席を立った。
「言っとくけど、課題の件、身内贔屓はなしだからな」
「身内差別の間違いだろ」
乱れた資料を整えながら佑月は毒づく。
「じゃあな」
ひらひらと振られた手のひらが、廊下の向こう側へと消えていく。
「……それ俺のカップだろって」
年の離れた従兄はまだ兄貴性分が拭えないらしい。かけられた言葉が今になって傷痍へ沁み渡る。
佑月はすぅっと息を吸い込むと、再び手元の紙へと目を落とし、無機質な文字列を辿った。
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