第3話

1/1
前へ
/24ページ
次へ

第3話

◆  ◆  ◆  ──十二月十八日 午後七時。  雪が降る日は外に出たくない。冷えた身体は気分を落ち込ませ、判断力が鈍るから。  そう豪語していた母が、わざわざ二時間も車を走らせて空港へ向かった理由は、単身赴任を終えて帰国する父のためだった。  助手席には兄が座り、地図の読めない母の道先案内役を務めた。後部座席には自分と、一つ年の離れた妹が座っている。コートも羽織らずに車に乗り込み、風邪だけは引くなよと茶化し合いながら車を走らせた。  町並みは煌びやかなライトで彩られ、ラジオからお決まりのクリスマスソングが流れている。外は寒いから僕と一緒に家にいようよ──そんな内容の歌詞だった。 ◆  ◆  ◆  千葉県の県境に建てられた医療刑務所への訪問は、二両編成という時代錯誤なローカル電車と、個人運営の小型バスを乗り継ぐことで成立する。  厳然たる門の先に佇む建物は老朽化に錆びれ、あちらこちらで改修工事のサインが掲げられていた。 「逢花大学の七です。壱岐巳さんとの面会をお願いします」  受付の看守に声をかけて学生証を提示する。続けて訪問者欄にも名前を記入した。  一歩奥へと進んでから手荷物検査を受け、ふと窓外に振りはじめた綿雪を見つめる。ちぎり取った綿アメのような雪片が、空一面を埋めていた。 「……寒いな」  はぁーと、空中へ吐き出した呼気が白く濁って消えていく。渡り廊下へ出ると途端に温度が下がり、底冷えするような寒気に佑月は身を萎ませた。 「どうぞ」  建付けの悪そうな動きと共に扉が開かれる。今日は立ち合い人が付かないのか、入室するなり戸が閉められた。次いでガチャンと施錠する音が立つ。 「……は?」  驚いて振り向くも、ドアノブにはカギ穴が付いている。内側から開く場合もカギがいるようだった。 「こんにちは」  封じられた空間の中、耳をくすぐる低声が佑月を迎え入れる。またもや先手を取られ、「こんにちは」とぎこちなく返すと、壱岐は相好を崩し微笑んだ。 「外寒くなかった?」 「まあ……積極的に外出したい気温ではないですね」 「そっか、冬は嫌い?」 「どちらかと言えば」 「僕も、あまり寒いのは得意じゃないんだ」  同じだねと悪気のない親近感を抱かれ、居心地の悪さを覚える。  壱岐の癖なのだろうか。人懐っこい笑顔を浮かべながらも、些細な物音に反応して瞳孔が拡張する。 「先生は、なにか言ってた?」 「え? ああ、壱岐さんの腹筋がバキバキで羨ましいって」 「触る?」 「はあ? 触るわけないだろ」  嬉々としてシャツをまくり上げる壱岐を一蹴し、佑月は不快感に顔を歪めた。  誰が好き好んで男の腹など触るか。呆れまじりのため息を吐き、手前側の席へと腰かける。 「ねえ佑月」 「はい」 「それどうしたの?」 「……? なんですか」  それと言われただけではわからず、なんのことかと首を傾げた。  壱岐はすうっと目を細めてから視線を落とす。 「その左手、どうしたの」  再度繰り返された言葉に、佑月の喉がひゅっと鳴った。冷えた空気が胸を圧迫し、全身の皮膚がじっとりと湿りけを帯びる。 「……猫、に、噛まれて」  平静を装ったはずが、無自覚にも目が泳いでしまう。 「へぇ、実家には頻繁に帰ってるの?」 「は、なんで」 「なんでって、佑月が住んでいるところはペット禁止だろ? あそこらへんは開発区域だから野良猫もいないし」  壱岐は「それに」と付け加え、佑月の左手をわし掴んだ。 「猫を飼ってるのは佑月じゃなくて、要さんだ」  断定的な物言いに、ゾッと背筋が震え上る。  要は父の名だ。なぜ壱岐が知っているのか。それに一人暮らしのことも。壱岐の前でそのような話をした覚えはなかった。 「な、んで、知って……」  問い質したくとも、驚愕に震え、言葉が続かない。 「噛み癖はよくないよ。ちゃんと躾けないとね」  長い人差し指がガーゼの上を撫でる。つーと指をしならせ、半円を描くようにして傷の上をなぞった。 「……いっ!」  押し潰されたところが皮膚を引き攣らせて痙攣する。傷口が開いたのか、ガーゼの下からは鮮やかな赤が滲み出した。 「放……してください」  痛い。  燻るような鈍痛が神経を蝕んでいく。 「放せって、言ってるだろ……っ!」  壱岐は答えず、中指の腹で手のひらを愛撫した。指先は母指球を圧迫し、的確に歯型の上を辿る。  痛みよりも不快感が勝った。薄い布を通して感じる人の体温は生温かく、欲深い。 「……それで、訪問するのは今日を含めて三回って言ってたっけ?」  壱岐はすっと手を放し、背凭れの方へと身を預けた。高い位置から佑月を見下ろし、何事もなかったかのように語りかける。 「僕としては、何度来てもらっても構わないんだけど。そろそろはじめないと、また面会終了の時間になっちゃうよ」  くすくすと頬杖をつきながら笑い興じる。  揶揄っているのではない、遊んでいるのだ。怒り、恐怖、哀しみ。手持ちのカードで揺さぶりにかけ、人の激情を煽ってくる。 「……質問、はじめてもいいですか?」 「もちろん」  ごくりと生唾を飲み込み、佑月は正面の壱岐を見据えた。相手も同じようにこちらを見つめ返してくる。
/24ページ

最初のコメントを投稿しよう!

231人が本棚に入れています
本棚に追加