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第3話
◆ ◆ ◆
──十二月十八日 午後七時。
雪が降る日は外に出たくない。冷えた身体は気分を落ち込ませ、判断力が鈍るから。
そう豪語していた母が、わざわざ二時間も車を走らせて空港へ向かった理由は、単身赴任を終えて帰国する父のためだった。
助手席には兄が座り、地図の読めない母の道先案内役を務めた。後部座席には自分と、一つ年の離れた妹が座っている。コートも羽織らずに車に乗り込み、風邪だけは引くなよと茶化し合いながら車を走らせた。
町並みは煌びやかなライトで彩られ、ラジオからお決まりのクリスマスソングが流れている。外は寒いから僕と一緒に家にいようよ──そんな内容の歌詞だった。
◆ ◆ ◆
千葉県の県境に建てられた医療刑務所への訪問は、二両編成という時代錯誤なローカル電車と、個人運営の小型バスを乗り継ぐことで成立する。
厳然たる門の先に佇む建物は老朽化に錆びれ、あちらこちらで改修工事のサインが掲げられていた。
「逢花大学の七です。壱岐巳さんとの面会をお願いします」
受付の看守に声をかけて学生証を提示する。続けて訪問者欄にも名前を記入した。
一歩奥へと進んでから手荷物検査を受け、ふと窓外に振りはじめた綿雪を見つめる。ちぎり取った綿アメのような雪片が、空一面を埋めていた。
「……寒いな」
はぁーと、空中へ吐き出した呼気が白く濁って消えていく。渡り廊下へ出ると途端に温度が下がり、底冷えするような寒気に佑月は身を萎ませた。
「どうぞ」
建付けの悪そうな動きと共に扉が開かれる。今日は立ち合い人が付かないのか、入室するなり戸が閉められた。次いでガチャンと施錠する音が立つ。
「……は?」
驚いて振り向くも、ドアノブにはカギ穴が付いている。内側から開く場合もカギがいるようだった。
「こんにちは」
封じられた空間の中、耳をくすぐる低声が佑月を迎え入れる。またもや先手を取られ、「こんにちは」とぎこちなく返すと、壱岐は相好を崩し微笑んだ。
「外寒くなかった?」
「まあ……積極的に外出したい気温ではないですね」
「そっか、冬は嫌い?」
「どちらかと言えば」
「僕も、あまり寒いのは得意じゃないんだ」
同じだねと悪気のない親近感を抱かれ、居心地の悪さを覚える。
壱岐の癖なのだろうか。人懐っこい笑顔を浮かべながらも、些細な物音に反応して瞳孔が拡張する。
「先生は、なにか言ってた?」
「え? ああ、壱岐さんの腹筋がバキバキで羨ましいって」
「触る?」
「はあ? 触るわけないだろ」
嬉々としてシャツをまくり上げる壱岐を一蹴し、佑月は不快感に顔を歪めた。
誰が好き好んで男の腹など触るか。呆れまじりのため息を吐き、手前側の席へと腰かける。
「ねえ佑月」
「はい」
「それどうしたの?」
「……? なんですか」
それと言われただけではわからず、なんのことかと首を傾げた。
壱岐はすうっと目を細めてから視線を落とす。
「その左手、どうしたの」
再度繰り返された言葉に、佑月の喉がひゅっと鳴った。冷えた空気が胸を圧迫し、全身の皮膚がじっとりと湿りけを帯びる。
「……猫、に、噛まれて」
平静を装ったはずが、無自覚にも目が泳いでしまう。
「へぇ、実家には頻繁に帰ってるの?」
「は、なんで」
「なんでって、佑月が住んでいるところはペット禁止だろ? あそこらへんは開発区域だから野良猫もいないし」
壱岐は「それに」と付け加え、佑月の左手をわし掴んだ。
「猫を飼ってるのは佑月じゃなくて、要さんだ」
断定的な物言いに、ゾッと背筋が震え上る。
要は父の名だ。なぜ壱岐が知っているのか。それに一人暮らしのことも。壱岐の前でそのような話をした覚えはなかった。
「な、んで、知って……」
問い質したくとも、驚愕に震え、言葉が続かない。
「噛み癖はよくないよ。ちゃんと躾けないとね」
長い人差し指がガーゼの上を撫でる。つーと指をしならせ、半円を描くようにして傷の上をなぞった。
「……いっ!」
押し潰されたところが皮膚を引き攣らせて痙攣する。傷口が開いたのか、ガーゼの下からは鮮やかな赤が滲み出した。
「放……してください」
痛い。
燻るような鈍痛が神経を蝕んでいく。
「放せって、言ってるだろ……っ!」
壱岐は答えず、中指の腹で手のひらを愛撫した。指先は母指球を圧迫し、的確に歯型の上を辿る。
痛みよりも不快感が勝った。薄い布を通して感じる人の体温は生温かく、欲深い。
「……それで、訪問するのは今日を含めて三回って言ってたっけ?」
壱岐はすっと手を放し、背凭れの方へと身を預けた。高い位置から佑月を見下ろし、何事もなかったかのように語りかける。
「僕としては、何度来てもらっても構わないんだけど。そろそろはじめないと、また面会終了の時間になっちゃうよ」
くすくすと頬杖をつきながら笑い興じる。
揶揄っているのではない、遊んでいるのだ。怒り、恐怖、哀しみ。手持ちのカードで揺さぶりにかけ、人の激情を煽ってくる。
「……質問、はじめてもいいですか?」
「もちろん」
ごくりと生唾を飲み込み、佑月は正面の壱岐を見据えた。相手も同じようにこちらを見つめ返してくる。
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