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第1話
体内で温められた吐息は白く浮かび、鈍色の空へと消えていく。渡り廊下を歩く足は寒さに震え、鼻先は赤く染まっていた。清潔感のある館内はどこまでも白く、時折、消毒液の交じった香りが鼻を突く。日常を逸脱した情景。それはどこか排他的で、落ち着かない心をより憔悴させた。
受付を終え、度重なる荷物検査を受けた後に通された部屋は、予想よりも整然としていた。映画やドラマで見るようなガラス仕切りはなく、監視カメラすら見当たらない。部屋の真ん中には木製のデスクと、対面するように並べられた椅子が二つ。安っぽいペンキで塗装された壁は窓外の雪景色と同化し、物悲しさを抱かせた。
深閑としている。降りしきる雪の音が聞こえてくるまでに。流れる空気はなだらかで、この世の終わりのように儚く。不変的だ。
「どうぞ」
立ち合いの刑務官は入室するなり壁へ凭れかかり、寝息を立てはじめた。あからさまな怠慢は公務員ならではと言うべきか。耳にはイヤホンが嵌められ、歌番組かなにかのラジオ音が流れている。
「こんにちは」
部屋の前で途方に暮れていると、奥に座る男が声をかけてきた。癖のある黒髪、薄い唇。瞳の色は淡く、青みがかった灰色だった。眩し気に目を細める姿は情緒を濁し、身に纏った白い病衣は洗練とした印象を与える。
「君、名前はなんていうの?」
「さとるです」
「さとる、か。僕の名前は知ってる?」
「壱岐巳さんですよね」
「──……」
「違いましたか?」
「いや、そうだね……確か、そんな名前だったはず」
壱岐は漠然とした反応を返してから、ふわりと微笑んでみせた。
「君さ、歳の離れたお兄さんがいない? あと妹さんもいそうだ」
「よくわかりましたね」
「真ん中っぽい感じするからね」
その言い方は一般的にはあまり良い意味で使われることがないのだが──初見から五分経たずして、容れない人種であることを覚らせる。
「それで、下の名前はなんていうの?」
「……は?」
「七は苗字だろ? 下の名前は?」
手前の椅子へと腰かける傍ら、想定外の発言に身が固まった。
この苗字を聞くと、大抵の者が名前の方だと勘違いする。「悟」や「聡」など。ありふれた名ばかりに、間違えるなという方が無理な話だった。それが初対面で、相手から指摘されるとは。
「…………」
不信感から返答を押し渋っていると、壱岐はわざとらしく眉を下げ「教えて」と哀願した。
「……佑月です」
「いい名前だね」
「どうも」
「それで。佑月は僕がなにをしたかは知ってる?」
喉の奥に強かな興奮を含ませながら壱岐は問う。傲慢と称するよりも愉悦に近い。そんな心証を抱かせた。
「女性二名と、男性一名の殺人……」
「え? それだけ?」
壱岐は肩透かしを食らったかのように頬杖を崩し、目を見開いた。
「戸ヶ崎先生のことだから、もっと資料を用意していたはずだけど──」
もの言いたげな視線が突き刺さる。しかしどれだけ待たれようとも、ないものはないのだ。
佑月はバツが悪そうに視線を落とし、どう切り出すべきかと当惑した。適当に話を盛って誤魔化すか、それとも事実を伝えるべきか。
「なにかあった?」
「いえ、ちょっとした連絡の行き違いがありまして」
「ああ、なるほど。意地悪されちゃったんだ」
この男には言葉の裏を読むという考えがないのだろうか。わざと濁したはずが、ど直球で返され、思わず顔が引き攣ってしまう。
「すみません。でもまあ、壱岐さんがもっと有名な方だったら、わざわざ調べる必要もなかったのですが」
「あれ、意外と口悪い?」
「『口』じゃなくて『性格』が悪いんです」
「あははっ、自覚あるんだ」
普段ならば、もっと効率よく立ち回れるはずが、今日はどうも調子が乱されている。
佑月は額に筋を浮かべながら手元のペンをカチカチと弄り、長く息を吐いた。
「別にいいんだけどさ、どうせまた先生の企てだろうから」
「文句は大学の教務課までお願いします」
「あははっ!」
「…………」
三十を超える男が、人前で恥じることなく哄笑している。社会に出れば多少なりとも純粋さが失われるものだが。壱岐のそれは限りなく素に近い。
「先生の講義は応用心理学だったかな? 前の子の時は色々あってね。彼も今回は作戦を練ってきたんだと思う」
「はあ、そうですか」
佑月は素っ気なく返答し、椅子の背へと身を傾がせる。しかしその心中では、彼らの関係性について疑心を募らせていた。
話し振りからして顔見知りであることは間違いない。過去に行った治験の参加者か、知人の紹介か。双方の立場上、個人的な知り合いである可能性は低かった。
「先生は僕の主治医だよ」
「え」
「僕がここの医療刑務所に入ったのが三年前だから、先生とはそれぐらいの付き合いになるかな」
「長いですね。俺は今学期ではじめて先生の講義取りましたけど、次はもう取りません」
「だいぶ嫌われてるね。でもたぶん、彼は佑月のことを気に入っているんだと思うよ」
さらりと告げられた見解に、佑月は「うげぇ」とあからさまな嫌悪を晒した。
それを見た壱岐は盛大に吹き出し、失笑する。
刑務所の面会室はもっと厳格なものだと思っていたのだが、そうでもないらしい。
部屋の隅で佇む刑務官は壱岐の大笑いにも動じず、快適な睡眠を貪っていた。
「ここは医療刑務所だから仕切り板はないし、優遇区分によっては立ち会い人もつかないんだ」
佑月の視線の先を追い、壱岐は涙を拭いながら口を開く。
「そうなんですか」
「ちなみに僕は第一類。これでも優等生なんだよ」
誇らしげに微笑む表情はあどけなさを残し、一つ年下の妹を思い起こさせる。飾り気のない純朴な笑顔。その清らかさに、少しばかり胸が焼けた。
「優遇区分って、成績評価みたいなものですか?」
「まあ似たような感じかな」
優遇区分。浅い知識ではありながらも、耳にしたことのある言葉だった。
刑務所での区分は第一類から第五類に分けられ、生活態度や賞罰の状況から著しく評価される。
自身を優等生と称するにあたり、制された環境の中でもそれなりの地位を築けているのだろう。落ち着き払った姿勢からは幾ばくかの余裕が感じられた。
「それで、僕はなにをすればいいのかな。流石に課題の内容ぐらいは聞いているんだろ?」
壱岐は椅子を軋ませ、ゆったりとした手付きで頬杖を突いた。
「前の時と内容は同じですよ。インタビュー形式で俺が質問をするので、壱岐さんはそれに答えるだけでいいです。作成したレポートは提出する前に見せに来ます。それぞれの回答の掲載の判断はそこでしてください」
「なるほど。質問はどのくらいあるの?」
「二十……いや三十ぐらいだったような? 答えたくないものがあれば飛ばしていただいて結構です」
「そっか、佑月も知っているだろうけど、ここでの面会時間は三十分までって決まりがあってね。それ以上は別の日に繰り越すことになるけど、それでも構わない?」
「問題ないですよ。はじめから何度か訪問させていただく予定だったので」
「じゃあ大丈夫だね」
「それで、質問の内容なのですが……あっ」
話しの途中で携帯電話が鳴り、慌ててマナーモードへと切り替える。悪いと思いながらもその流れでメールを開くが、これといって目ぼしい情報は見当たらない。
佑月は携帯電話を上着のポケットへと押し込み、表情を曇らせる。
「あー……実はまだ質問のテンプレートが届いてなくて、インタビューは次回からでもいいですか?」
あれほど面会時間前までには送るようにと伝えていたはずが、電話の一本も寄越しやしない。
「いいよ。佑月も大変だね」
なんのために時間を取ったのやら。そう呆れられるかと思いきや、逆に気を遣わせてしまったらしい。紳士的な対応を前に、図らずも安堵の息が漏れる。
「じゃあ、もう戻るね。来週も同じ時間でいい?」
「あ、はい。金曜日の午後も二時頃で──…」
すくっと立ち上がった姿は予想より高く、毅然としていた。細身でありながらも無駄のない体つき。端無くも目が奪われる。
刑務所内でどうやってあの体型を保っているのだろうか。甘い顔に似合わず襟元から覗く胸筋は雄々しく、筋張った腕には血管まで浮き上がって見える。
「またね、佑月」
壱岐が席を立ち、横を通り過ぎる。その傍ら、無骨な指先が左手へ重なり、その上を軽く愛撫した。中指が親指の付け根を圧迫し、中手骨を辿るようにして弧を描く。
「ひっ」
ぞわっと背に蔓延るような戦慄を覚え、手を払い退けた。
──なんだ、今のは。
動揺に肌が騒めき立ち身が竦む。背後を振り返るが既に壱岐の姿はなく、遠ざかる足音だけが悪戯に心を乱した。
「……っ」
ポケットの中で携帯電話が着信に震えていたが、今はそれに気を割く余裕すらない。
誰もいなくなった室内の中、佑月は震える自身の左手をきつく握り締める。まるで罪悪感に駆られた子供のように、背を縮こまらせ、窓の外に積もる雪の残像を見つめた。
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