波形e.p

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 子どものころ、波の形に切れるハサミをねだった。  その日は誕生日でも記念日でもなくて、わんわんと泣き崩れる私をなだめようと母が買ってくれた。  弟には内緒と言われたのに、どうしても自慢したくなった私は目の前で得意げに紙を切る。「おねえちゃんばかりずるい」と喧嘩になってなんとなく弟と話すことはなくなった。  家族で梢枝海岸に訪れたときに、少しだけ弟の面倒を頼まれた私は、早く泳ぎたい気持ちを削がれてふてくされていた。砂遊びに夢中な弟をよそ目に携帯をいじっていたら、いつの間にか弟の姿が見えなくなっていた。  飲み物やフランクフルトを持って戻ってきた両親に聞かれて戸惑っていると、遠くの浜辺から騒ぎ声が聞こえてくる。 『男の子が海で溺れてる』  波の勢いは激しく、海難救助隊が助けにいこうにもその悲痛な声はいともたやすく海の向こうへと流されていく。目を離した数分の間に弟の命は奪われていった。  それから数日、梢枝海岸にグランドピアノが漂着する。  あんな重いものがどこから流れてきたのか。見た目は酷く錆びれているのに、その音色はとても清らかなものだった。  いつからか、それは『エンディグ・ピアノ』と呼ばれるようになる。  透明感のある音色は、聴く者に安らぎと終焉を与えた。  因果関係があるかはわからないけれど、ピアノの音色を聴いた人は少なくとも一年以内に自殺を図る。それでも海岸にステージが設立されて、誰でも弾けるように整備された。  安らかな死を、世界が求めている表れだろう。  弟の死を思い出してしまうから、梢枝海岸に何年も訪れることはなかった。弟を見殺しにした罪悪感に駆られて、息苦しくなって。最期にピアノの音色を聴こうと思ったのだ。  波の音が私を責め立てる弟の声のようにも思えた。  あの日、弟に自慢するために使っただけの波形バサミをポケットから取り出す。波が弟の命を奪った。もしも、波形バサミで波を切り取って、弟を捜すことができたなら。  空中で波形バサミの刃をゆっくり閉じると、錆びついて閉じなくなっていた。思い出が錆ついていく。せめて、この海のどこかにいる弟へ届くように、波形バサミを海に流す。  エンディング・ピアノの椅子に座る。  撫でるように鍵盤を弾く。リィン、と音色が鳴り響いた。  このピアノがどこから流れてきて、どうして梢枝海岸に辿り着いたのかはわからない。そして、私がこれからどこに流れて、どこに帰結するのか。ザザン、ザザンと鳴り響く波の音を合図に、私はもう一度ピアノの鍵盤を叩く。  どこからか、うみねこの鳴く声がした。
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