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「アリア、歌はもうやめましょう。」
街の公演の最終日…つまりマリーのこの劇団での最後の講演が終わった日、皆に惜しまれながらマリーが控室に戻ってきて、アリアに言った第一声だった。アリアは、お疲れ様でしたの一言を言おうとしていたが、マリーのことばに飲まれてしまう。
「やめるって…」
「もうそもそも、明日には私、いなくなっちゃうし。あなたに足りないのは、歌じゃないわ。お芝居の方よ。」
マリーが何か、アリアに投げてよこした。アリアが最初に見た、『雷の男』の台本だった。
ぼろぼろだ。マリーがいかに読み込んでいるのかがわかる。
「それの、第3幕の第2章の、私のセリフ、読んでみて。…言っとくけど、舞台に立ってる感じで読んでね。」
アリアは急いで開いた。
ああ、どうしたらいいの。
私が悪いの。
これほどあの人を想ってしまった私の罪なの。
私があの人と一緒にいたいと思ってしまうほど、あの人の存在を虚しいものにしてしまう。
あの人は私のものではない。
ほんのひと時の幻。
その幻を消せない。
手放したくない。
なんて罪深い女なのでしょう。
アリアが読んだセリフを聞いて、マリーは首を横に振った。
「違うわアリア…もっと、想像して。その女性はあなたではないの。勿論私でもない。雷の男はある日、天界から転げ落ちる。地上に来て、自分の立場を忘れて人として生きようとしてしまう。しかしそこへ、天界の使いがくる。雷の男に恋をしているその女性は、天界の使いを追い返すも、彼をだましているような自分の仕打ちに葛藤する。第3幕は、彼女の苦悩の幕なの。そして第4幕で、彼女は決意し彼に打ち明ける。彼に記憶を取り戻させ、天界の自分のあるべき姿へ戻るべきだという。そして第5幕で、彼は天へ帰ってしまう。しかし彼女のその献身的な態度と彼への想いを哀れんだ天界の長…雷の男の父が、彼女をついに天界へ導いてくれるのよ。」
アリアは想像する。彼女の苦悩を…。それはアリアにとって難しいことだった。魔女は感情的になってはならないと、最初に教わっていた。感情を表に出せば、力があふれてしまう。コントロールするためには自分の心を冷静に保たねばならない。だから、人の感情というものにアリアは疎かった。
アリアがもう一度セリフを読むも、マリーはまた首を振った。また読む。首を振る。何度も繰り返した。夜は更け、マリーはあきらめて寝てしまっても、アリアはあきらめず一人で外で繰り返した。
呪文を唱えるのとは違う。人と話すのとも違う。自分はアリアではなく、雷の男に恋する娘。恋などわからなかった。しかしアリアは考えた。頭で何度も、自分の見た劇を思い出した。あの時のマリーは本当に、男に恋しているようだった。だからこそ、魅せられたのだ。
マリーは目覚める。今日でこの劇団とはお別れだ。アリアがほんの少し気がかりだった。昨日も結局うまくいかなかったが、彼女はそのうちモノになる。コツをつかめばきっと、自分よりも偉大な歌姫になれる…そんな気がしていた。
アリアの部屋に向かおうとしたが、当の本人を窓の外に見かけて驚く。まさか、昨日からずっとあそこにいたわけじゃないだろう。アリアは、人のいなくなった舞台の上にぽつんと立っていた。目を閉じているようだ。部屋を出てそばまで行こうか迷うが、彼女が今から何かをしようとしている気がしてそのまま見守る。少しして、アリアはゆっくりと目をあけると、のびやかに歌った。
いつか別れる運命なら、今だけはこの気持ちを胸に側にいたい。
きっと明日は、あなたを送り出すから、今日だけはその腕に抱かれていたい。
私は罪な女なの。
こうしてあなたを私だけのものにしたかった。
でもそれはゆるされないのね。
あなたをみていてわかったの。
あなたはわたしのものではないと。
あなたはあなた。
あるべき場所に帰りましょう。
でもきっと、あなたがわたしをわすれても、私はあなたを忘れないでしょう。
鳥肌が立つほどに、美しい旋律だった。マリーは大きく拍手する。アリアまで届いたようで彼女はこちらを見ていた。雷の男の、歌だった。マリーのお気に入りの、歌だった。アリアは見事に歌い上げた。それは誰のマネでもなく、彼女自身の歌だった。
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