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劇作家
意外とあっさり、彼は引き受けてくれた。
次の日の公演を見たあと、アリアの元を訪ねてきた彼は、昨日とは違いきちんとした紳士風の身支度だった。
「馬子にも衣装ね。」
「服にはこだわりがあるんだ…それより公演、見させてもらった。」
「ええそれで、どうでしか?」
「悪くはなかった。だが、あんたの言う通り課題だらけと言う感じだ。」
「ええ、そうなのよ…。」
「ただ…」
そこで彼は少しアリアから視線を外した。これまでのはっきりした口調とは違い、言い淀むような、困っているような口ぶりで小さく言った。
「あんたは…最高だった。」
「…え?」
「だから、歌姫は…アリアは最高だった。」
急に心臓が大きく脈打つのが分かった。彼のまっすぐな瞳と目が合う。翡翠色に輝くその瞳に嘘はなかった。これまで様々な賛辞の言葉をもらったが、彼のこの言葉に勝るものはこれまでの人生でひとつもなかったように思えた。恥ずかしかった。しかし嬉しかった。
「ありがとう。」
「昨日あんな態度をとってしまった自分を本当に恥じている。もう一回やり直させてほしい。」
なにを、とアリアがいう前に、彼はシルクハットをとり、アリアの前に傅くと、その手を取り祈るように…いや何かに誓うように言った。
「アナベル・トリア。貴方の一座に是非加えてほしい。この魂の全てを注いで貴方に尽くすと誓う。」
あまりの仰々しさと、昨日との態度の違いに、アリアは思わずくすくすと笑いが漏れてしまった。
「ええ…勿論よ。ハックル・トビー。この世の魂が尽きるまで、2人で芝居に心を燃やしましょう。」
2人は目を合わさなかったが、互いに心に熱い何かを感じていた。
「フィアンマ劇団に新しい仲間が増えるわ。」
「ハットだ。劇作家。」
「…よろしくねみんな、ちょっととっつきにくいかもしれないけれど…良い人よ。」
劇団員からはまばらに拍手が起こった。
「ハットなんて作家聞いたことないぞ。大丈夫なのか?」
エリックが適当に拍手をしながら突っかかる。無理もない。ハットの見た目は警戒心を抱かせる。人に好かれるタイプではない。
「腕は保証するわ。」
「歌姫さんは彼の劇をみたことあるのかい?」
「劇はないわ。でも、書きかけの作品ならいくつか、見せてもらえた。」
ハットは、雇ってもらうにあたり、自分の演劇も見てくれと、彼女に手渡していた。完成しているものはなかったが、どれも確かに才能を感じさせるものだと思えた。
「どうして完成させないんです?」
「…結末は幾つもある。演じる人と演じる街を見て決めたい…そう思って書いてきた。」
「昔、自分の作品に完成品はないと言った芸術家がいたらしいわね。彼も…見る人が決めるものだと知っていたのかしら。」
「表現者はそれぞれ想いをもって表現する。でも見る者にそれを理解させようとしてはいけない。千にも万にも、見たひとの数だけ作品はある…そう思う。だから、一つの作品、一度の公演は、魂のこもったものでないといけない。」
その言葉が、前の座長と重なる。この人は、分かっているのだ。自分がようやく最近わかり始めた、演劇というものが。彼に惹かれる。震わされる。彼の存在、言葉、心に。アリアは自分のその心の小さな変化に、心地よさを感じていた。
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