下界の日常

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下界の日常

あの日、トムとともに村を出て約1年ほどたったろうか。トムは気苦労したせいか、その頭が真っ白になっていた。アリアはその頭を見て、自分が彼のお荷物ではないかという思いが強くなっていた。これまで、魔法を学んでいる間は自分にできないことなどないと思っていた。しかしそれは、魔法を自由に使える世界での話であり、アリアの生きていたあの村の中での話であった。つまり、文字通り井の中の蛙大海を知らず。自分の住む世界の外が、どれほど広いのか知らなかった。きっとトムがいなかったらもう無事ではいられなかっただろう。狩人につかまっていたか、はたまた下界で見世物になっていたか。 トムは、しぶとく生きる術を知っていた。村を出た日、船に密航させてもらい、海を渡って遠い街にきた。アリアは、少し身を潜めればすぐにまたあの村に帰れるだろうと思っていたが、それは甘かった。トムが言うには、村魔女を襲うとき狩人は、入念に周囲の無の民の村にも潜入し、逃げてきた魔女たちを捕まえようと網を張っているらしい。その捜査網は、数年そこで張られているため、同じところに村をつくるのはほぼ不可能になるのだそうだ。だから遠くの街で身を潜め、機会をうかがって生き残った村の住人を探す必要があるだろうと言われた。しかしアリアは、ほとんど屋敷を出たことがなかったから、探すためには村の人のことを知らな過ぎた。よって、二人は村を再興したいというアリアの願いを一旦置いて置き、生きるために働くことにした。 トムは、港町で船着き場の荷下ろしの仕事を見つけた。アリアも仕事をしたいと申し出たが、下界では10歳は働く年てはないという。本当であれば、どこかで教育を受けるなり、仕官するなりしなければならないらしい。しかしそれはほとんど男性の場合で、女性は家の手伝いをして過ごすのが習わしだという。アリアは、ベビーシッターや、家政婦の仕事ならいいだろうと思ったが、トムに自分の家のことをやったことがない者を雇う人はいないと言われてあきらめた。アリアは無力だった。てんで一人では生きられない箱入り娘だった。当面は、魔法を使わない生活と、下界の日常に慣れるため、そして家事に慣れるためという名目で、二人で借りた小屋の手入れをすることにした。 アリアは知らなかった。朝冷たい水で茶碗を洗うときの手の痛みや、掃除をするときの腰の痛み、洗濯をする大変さや、外の街で物を買って帰り、料理することの苦労を。何もかも新鮮で大変に思ったが、やっていくうちにそれは、どうしてか生きる気力をみなぎらせた。村の屋敷の中では、全て与えられたものを享受するのみで、自らなにかをしようとしたことはなかった。だから下界の日常は、大変だが生きた心地がした。そして、知らなかった無の民と触れ合うことで、無の民に対する尊敬の念も生まれた。無の民は、魔法を使えないが、驚くほど沢山の工夫を施して生活していた。アリアにとってそれは繊細で丁寧で、美しいものに思えた。
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