演劇

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演劇

トムさんがある日、2枚のチケットをもって帰ってきた。アリアは、水仕事で冷たくなった手を温めながら、手渡されたその一枚を見る。 『フィアンマ劇団 雷の男  座長:ラチェット・ペンサー』 「トムさんこれ…」 「演劇だよ。見たことないだろう?」 「演劇…」 聞いたことはあった。人が、ある演題に対して役柄を演じる。自分ではない誰かの人生を舞台上で演じるのだ。 「見たことないです。」 「見にいこう。実は私は演劇が大好きでね…久しく見ていなかったんだが、移動芝居の連中が来ていると聞いて、急いでチケットを買ってきたんだ。」 「移動芝居?」 「地域を巡業して芝居を見せてる者たちだよ。ほら、サーカスと同じ仕組みだ。」 サーカスは馴染みがあった。呪文学の先生も昔、サーカス団にいたと聞いた。摩訶不思議なものを演出するサーカスは、魔女にとって良い隠れ蓑になったそうだ。しかし芝居というのはどうも、想像がつかない。一体、別人を演じて何が面白いのだろうか。そしてそれを見ることにどんな意味があるのだろうか。 「とにかく、支度して。帰りが遅くなってしまったから、もうあまり時間がないんだ。私は外に行って待ってるよ。」 「わかりました。」 アリアはいつもの少しすり切れたコートを羽織ると、外に出て寒そうに鼻を赤くして待つトムのもとへ急いだ。 見てくれはサーカスと似ていた。大きなテントを張り、その中には演技をする大きな舞台が用意されている。トムは、末席で悪いね、と言っていたが、遠いおかげで少し高くなっている席はまだ背の低いアリアにとってはありがたかった。なにより、魔力のおかげで目はよく、苦ではない。トムもおそらく、年の割に目がいいのは魔力のおかげだろう。眼鏡をかけているところなど見たことがなかった。少し年配の、しかし優しそうな男性が真ん中に歩いて来る。彼が、どうやらチケットに書いてあった座長の、ラチェット・ペンサーらしい。座長兼演出家で、『雷の男』も彼が書いて演出しているそうだ。説明が終わり、幕が開く。そこから先、見たものは、アリアにとって別次元の世界だった。 これほど心動かされるものに、アリアは出会ったことがなかった。劇が終わり、拍手をする手が痛くなるまで、アリアはただ、手をたたいた。他の観客は、まばらに拍手をしているところを見ると、劇自体の質はそれほど高くなかったのかもしれない。しかしアリアは、演劇というもののすばらしさに魅了された。 「どうだった?」 「トムさん…私…私ここで、働きたいです。」 「え?なに?」 「私…私演劇が好きになりました。もっと知りたい。もっと見たい。もっと触れたい。ここで…劇団で、働きたいです。」 アリアは、その大きな目を更に大きくして、トムを見上げた。トムはその視線に少したじろぐ。そんな急なことを言われても、という本音を何とか飲み込み、「うーん」とうなった。どうにかして少女のその希望を諦めさせたかったが、何を言っても聞き入れなそうな固い意志を感じて何も言わず、「わかった。」とだけ答えた。 「確証はないが、やってみる。まず今日は、帰ろう。」 トムに言われ、アリアは帰路につく。しかし家につくまでも、ついてからも、考えるのはあの舞台のことだった。魔法ですら彼女をここまで虜にしたことはない。魔女はよく、人を魅了するものと言われるが、アリアにとっては演劇の方がよっぽど、人々を魅了する魔法に思えた。 演劇がしたい。 そう強く思った。
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