3.彼の愛した小説家

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 医者には過労だと言われ、自宅で安静にするよう指示された。  安斎は夕方から入っていた仕事を急遽キャンセルし、美也子の看病に精を出した。ぼんやりとする視界の中に、甲斐甲斐しく額の汗を拭ってくれる安斎の姿がある。あんなに怖いと思っていたのに、なぜかとても安心できた。  安斎が、美也子の髪をかき上げた。 「ごめんね。僕が無理をさせたばっかりに」  あぁ、と美也子は思った。  やっぱりこの人は優しい。私を完全な道具だとは思っていない――。 「私のほうこそ、ごめんなさい」  上ずった声で美也子は言った。 「苦手なジャンルだったんですよね、不倫ものは」  話題作でも、気が向かなければ読まない。それが安斎流の読書生活だ。どれだけ美也子の紡ぐ美しい文章を愛していても、不倫の話は読みたくない。そうとしか考えられなかった。  安斎は小さく息をついた。 「昔、父がよそに女を作ってうちを出ていったんだ。母と僕は捨てられ、一文無しになった。貧乏で、おもちゃもゲームも買ってもらえなくて、話題についていけないから友達もできず、地元の公立図書館に入り浸った。お金をかけずに遊べたから」  訥々(とつとつ)と語られる安斎の過去に、美也子は真摯に耳を傾ける。 「物語はいい。夢が見られる。現実を忘れさせてくれる。人は人を裏切っても、本は人を裏切らない。十二歳の時に今の事務所にスカウトされて、芝居を通じて物語の世界に入り込む楽しさを知った。母を亡くしてから、本当の意味で本と芝居だけが生きがいになった。自分以外は誰も信じられない。まともに人を愛せない。きみに興味を持ったのも、きみの描く物語と文章が好みだったから。それだけなんだよ。……それだけの、はずだったのに」  なんでだろう、と安斎は顔をくしゃりと歪めた。 「きみが苦しそうにしているのを見て、今、僕もすごく苦しい。傷つけたのは僕なのに、すごく」  美也子の頬に触れた安斎の右手は震えていた。大きな後悔が、波になって指先から伝わってくる。 「ごめん、美也子。本当にごめん」  美也子は必死に首を振った。 「謝らないでください。私は書きたくて書いています。書かせてもらっているんです、慶一郎さんに」  ちゃんと向き合って、改めて自分の気持ちを知った。  世間に気づかれなかった物語を、安斎は見つけてくれた。光を当ててくれた。  嬉しかった。誠意を持って紡いだ物語を愛してくれて。世間に広めてくれて。  あまりの反響の大きさに戸惑っていた気持ちが、いつのまにか自信過剰に変わっていた。私なら、どんな物語を書いても安斎を満足させられる。とんでもない思い上がりだった。読者の気持ちを(ないがし)ろにする作者が、一流になれるはずなどないのに。 「慶一郎さん」  想いを込めて、美也子はその名前を呼んだ。 「私は、慶一郎さんを愛しています。感謝しています。私の筆で、あなたの心を満たすことができたら、すごく、すごく幸せです」  タテノミヤコの小説を、この世で一番愛してくれる人。それが安斎慶一郎だ。  そんな安斎のことを、いつのまにか好きになっていた。そばにいたいと思う気持ちは本心だった。  どんな理不尽な要求でもいい。彼のために小説を書きたい。  私本人じゃなくていい。私というひとりの作家が愛されるのなら、それでいい。 「だから、どうかこれからもわがままな読者でいてください。私は、慶一郎さんのために書きますから」  願うことはそれだけだった。精いっぱい微笑みかけると、安斎はきれいな瞳の端にうっすらと涙をにじませた。 「ありがとう、美也子。僕も……きみが好きだ」  美也子は両眉を跳ね上げた。 「ありのままのきみを愛してる」  まっすぐな告白に、呼吸が止まる。 「きみがほしい。新作が出版されたら、結婚しよう」  安斎の目は真剣だった。ここに住めと言われた時の契約的なニュアンスはない。 「……結婚」 「ダメ?」  美也子は首を横に振る。嬉しすぎた。  安斎は「よかった」と微笑み、美也子の頬にキスをした。あまりにも幸せで、からだが元気を取り戻していく。 「早く新作の続きを書きたいです」 「ダメだよ。まずはからだを治さないと」  優しく汗を拭ってくれる安斎の手に、美也子は自分の手をそっと重ねた。 「慶一郎さんに、早く読んでもらいたくて」  安斎がかすかに頬を赤らめる。この人に見つけてもらえて、本も自分も愛してもらえて、心から幸せだった。    了
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