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「おめでとう、美也子」
その日、安斎が帰宅したのは深夜を迎えてからだった。新作映画の公開が控える中、新たな映画にキャスティングされ、打ち合わせに行っていたのだ。
どうしてもお礼がしたくて安斎の帰りと待っていた美也子を、安斎は優しく抱きしめてくれた。
「これできみも、名実ともに売れっ子作家の仲間入りだ」
「いえ、まだまだです。でも、慶一郎さんのおかげで、新作を出させてもらえることになりました」
「本当? やった、これでまたきみの美しい文章を本で楽しめる」
おめでとう、と安斎は言い、美也子にそっとキスをした。優しい口づけに心が弾む。
「それで、次の作品はどんな物語?」
「候補はいろいろあるんですが、オフィスラブにしようと思っています」
「社内恋愛か。悪くないね。一癖ある上司との秘密の逢瀬、とか?」
「まぁ、おおむねそんな感じなんですが……その、W不倫の話で」
答えた瞬間、安斎の表情が変わった。
「……ダメ」
「え?」
「それはダメ。別の話にして」
「えっ……。い、いや、でも編集さんは前作と毛色が違っていいですねって……」
安斎は大きく首を振った。
「ダメだ。そんな話、きみには似合わない。『彼の愛した小説家』みたいなまっすぐな恋愛を書いてよ」
「まっすぐですよ。キャラクターたちの気持ちはまっすぐなんです。不倫という麻薬に溺れながら、最後は本当の愛に気づく……そんな話を書きたいんです!」
ダンッ、と安斎がダイニングテーブルを叩いた。美也子の両肩が跳ねる。
安斎は美也子の腕を引っ掴むと、一階奥の書斎へと無理やり連れていった。美也子が「痛い!」と言うのも聞かず、書斎の一角に備えられたカウチソファに美也子を投げ出して馬乗りになると、両手を頭の上で押さえつけた。
「ねぇ、誰のおかげで新作が出せると思ってるの?」
「イヤ……、やめて……!」
「答えろ!」
顔の上で、安斎が声を張り上げる。美也子は泣きながら答えた。
「……慶一郎さん、です……っ」
「でしょ? わかってるなら、僕のお願い、聞いてくれるよね?」
怖かった。テレビや映画館のスクリーンで見る、出会った頃のさわやかな安斎はどこにもいない。
「新作は、別の話にして。いい?」
答えられなかった。案は他にもいろいろあるが、気持ちはすでに固まっていた。
黙って泣き続けていると、安斎は静かに美也子から離れた。そのまままっすぐ扉へと向かい、部屋を出る。ガチャン、と扉の向こうで大きな音がした。
しまった、と思った時には手遅れだった。この書斎には、外側からのみかけられる後付けの鍵が取り付けられている。
「慶一郎さん!」
ガチャガチャとドアノブを捻りながら、美也子は大声を上げて扉を叩いた。
「開けて! お願い!」
「新作を別の話に変えてくれるなら出してあげる」
「そんな……!」
部屋の北側に窓はあるが、面格子が設置されていて外へは出られない。唯一の出入り口は、安斎が鍵をかけて塞いでしまった。
なんということだ。美也子はその場にくずおれた。
新作を、別の話に。できなければ、私は一生この書斎の中に――。
「……わかりました」
そう答えるしかなかった。
「別の話にします。しますから、お願い、開けて……!」
涙声で懇願すると、安斎は鍵と扉を開けてくれた。
「裏切ったら、許さないからね」
冷ややかな声と、悪魔のような鋭い視線が降り注ぎ、美也子は悟った。
彼がほしかったのは私ではない。
私の書く、彼が読みたいと願った小説だけなのだと。
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