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3.彼の愛した小説家
どうにか小寺を説得し、新作は地方の観光都市を舞台にした恋愛ミステリでいくことが決まった。安斎は手放しで喜んでくれて、毎日のように「早く読みたいなぁ」と言っては美也子の処女作『彼の愛した小説家』を読んだ。執筆に勤しむ美也子の前で、うっとりと物語の世界に浸りながら。
プロットはできているので、ひたすら文章にする作業だった。訳あって仕事をやめたと小寺に伝えると、初稿の提出期限を一ヶ月後に設定された。厳しいスケジュールだった。
安斎の見守る中、必死に書いた。しかし、懸命に物語と向き合おうとすればするほど、先日の安斎の暴挙が脳裏をちらつき、手が止まった。
私は、安斎の奴隷なのだろうか。
安斎の望む物語を紡ぐだけの機械なのか。
悩んだ分だけ執筆が遅れた。迫りくる締切が、ただ美也子を焦らせ、追い詰めていった。
「慶一郎さん」
その日は朝から頭痛がひどく、けれど安斎には言い出せなかった。安斎の期待を裏切ってはいけない。その一心でデスクにしがみついていた。
ついに一文字も書けなくなって、ふらふらのからだでパソコンの前を離れると、美也子は書斎のソファにゆったりと腰かける安斎に言った。
「すみません、少し、体調が……」
言い終える前に、美也子のからだがフローリングに崩れ落ちた。「美也子!」と安斎は弾かれたように美也子に駆け寄る。
「美也子? ……なんだこれ、すごい熱じゃないか!」
額に触れた安斎の手が気持ちよかった。安斎は美也子を抱え、近所のクリニックへ運び込んだ。
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