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プロローグ
一行目から、その小説の虜だった。
流れるような、自然に呼吸のできるリズムのいい文章が、物語の情景を色鮮やかに描き出していた。そうかと思えば、言葉の一つ一つが突然激しくうねる高波となって襲いかかってきたりする。本格サスペンスでもないのに、その小説と向き合う時間は一秒たりとも気の抜けないものだった。
寝食を忘れて読み耽った。物語の幕が下り、パタンとハードカバーを閉じた時、その一冊を胸にかかえずにはいられなかった。目を瞑り、丸みを帯びた吐息を漏らす。
好きだった。どうしようもなく。
初めて読む作家だった。歴史の深い文芸賞を受賞したばかりの新人であるらしく、ちょうど映画の撮影に忙しくしていた頃にデビューしたようだ。
クランクアップし、およそ半年ぶりにゆっくり書店へ足を運ぶ余裕ができた今日、文芸書の棚にひっそりと並べられていたこの小説が真っ先に目に留まった。
タイトルに惹かれた。『彼の愛した小説家』。恋愛ものに興味が湧くのもずいぶん久しぶりのことだった。
下調べは一切せず、有名・無名も一切問わず、本屋で目についた小説を片っ端から買うのが彼の流儀だ。話題作でも、気が向かなければ読まない。それが彼なりの、地元の公立図書館に入り浸っていた小学生の頃から続く本との向き合い方だった。
ひとりで暮らすにはあまりにも広い豪邸のリビングルームで、彼はゆったりとロッキングチェアに揺られ、一目惚れしたその小説を一気に読み終えた。一息つくと、好きなシーンを幾度となく読み返した。優しく、時に棘のある言葉のすべてが、すぅっと自然にからだに染み込んでくる。
これまで好きだと思った作者の文章よりもずっと、この物語の作者の紡ぐそれは好みだった。リズム感が肌に合い、言葉選びのセンスに震える。
どんな人が書いているのだろう。頭の中で、作者がこの物語を綴っている様子を想像した。
すぐに想像では飽きたらなくなった。本の表紙に目を落とし、タイトルの下に付された著者名を指でなぞる。
タテノミヤコ。
女性だろうか。文章のイメージから、おそらく女性で間違いない。
「会ってみたいなぁ」
指をすべらせた固い表紙に顔を寄せる。大切なものを愛でるように、著者の名にそっと口づけた。
「ほしいなぁ、この人のこと」
物語。文章。タイトル。すべて好みだ。この作品を手がけた人のことも、きっと。
ロッキングチェアの背に深くからだを預け、彼は静かに目を閉じる。
想像した。すぐ目の前で、好みの文章が紡がれていく瞬間を。彼女の作り上げる物語の世界を、地球上で一番早く楽しむことが許される瞬間を。
ほしい。
タテノミヤコを、まるごと全部――。
立ち上がり、安斎慶一郎は本を抱きしめたままスマートフォンに手を伸ばした。運のいいことに、版元の六葉出版には営業担当に知り合いがいた。
電話をかけると、すぐにつながった。
『お世話になっております、六葉出版の中村です』
「どうも、ご無沙汰してます。安斎です」
『安斎さん! こちらこそご無沙汰しております。あぁ、ちょうどよかった。また帯のコメントをお願いしたい本があるのですけれども、ご協力いただけませんか』
「えぇ、かまいませんよ。それより」
はっきりと大きな安斎の瞳が、獲物を狙うライオンのごとくキラリと光った。
「実は僕も、中村さんにお願いしたいことがありまして」
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