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 二人で住んでいた家から一人分の荷物が消えただけで、アパートの部屋の中はこんなにもスカスカになってしまうものなのか……と、吉野祐樹(よしのゆうき)は不思議なほど感心した。最後に残ったのは、一人で使うにはいささか大きすぎる家電や家具と、あとはゴミ捨て場に放り投げてくるだけになったゴミ袋が数袋。  法律関係は緑色の紙にサインをするだけでよかった。協議離婚なだけまだマシで、これが調停にもつれ込んだりするとただただ面倒でしかない。友人にも離婚歴があるヤツが何人かいたものの、まさか自分がこんなことになるなんて思っていなかった。祐樹はダイニングテーブルの椅子にもたれ、ため息を一つ漏らす。  つつがなく、人生を歩んでいたつもりだった。売り手市場という時代の流れに後押しされて、就職活動にもそれほど苦労はしなかったし、勤め始めてからの稼ぎもまあまあな方で、それ以上のことを望むつもりなどなかった。そして、その会社で結婚相手を見つけたことも、人間の大多数が歩む人生の規定の道のりのような気がしていた。  三崎麻衣子(みさきまいこ)は、二つ下の新入社員として祐樹の会社に入社し、たまたま祐樹が教育担当となったことから関係が始まった。学生気分が抜けきっていなさそうな他の新入社員と比べ、落ち着いた様子で、かつ大人びた外見が、すぐに印象に残った。もともと面倒見がよい性格の祐樹は、オンオフ問わず、親身に麻衣子の相談に乗ってきた。  当時の恋人とうまくいっていなかった麻衣子が祐樹に靡くまで、それほど長い時間は必要とせず、それから入籍に至るまでは、互いに会社の人間にバレないよう付き合うことに心血を注いだと言ってもいい。面倒なことを嫌って、入籍からささやかな結婚披露パーティーまでを限られた人数で済ませてから、麻衣子だけ会社を退職した。  麻衣子は頭もよくて、気の利く女性だった。それは家庭に入ってからも変わらず、家事をそつなくこなして、いつも祐樹の帰りを待っていてくれていた。満たされたとしても取り立てて欠けるもののない、水が上から下に流れるように普遍的な、当たり前の生活。あとはいずれ子供を授かり、どこにでもあるような家庭がまた一つ築かれていくことだろうと、少なくとも祐樹はそんな風に思っていた。 ::::::::::  あなただけが悪いというわけじゃない。わたしにも至らないところがあったから。  ある日、そんな芝居めいた言葉とともに、麻衣子がテーブルの向かいの祐樹に差し出してきたのは、二人で選んだ結婚指輪と、A3用紙の記入欄の半分ずつが埋められた離婚届だった。確かに最近は祐樹が出張や残業その他で家を空けることは多かったし、夜も二人の間には透明な壁ができたように隙間がある日々が続いていた。けれども、不自由のない暮らしをさせてきたつもりでいた。  どうしてなのかと祐樹は食い下がったが、麻衣子の意志は固かった。取り付く島もないとはこのことだと頭の中で考えたのと同時に、もう自分の両親にも話をしてきた……という麻衣子の言葉に、もはや戦う気持ちになれなくなった祐樹は、無言で胸ポケットにあるペンに手を伸ばす。麻衣子が記念日にくれた名入りのペンで、二人を別つための署名をするのはなんとも皮肉なことで、かつ、間抜けなことにも思えた。  砂の城が波にさらわれるのと同じように、二人の間での手続きは、終わった。  前々から準備をすすめていたのか、麻衣子の物はそれからあっという間に、家の中から消えていった。プロポーズの時にぽろぽろと宝石のような嬉し涙を流していた女は、最後の日には瞳にどこか寒い光をたたえて、玄関に向かった。一度も振り返らないまま、家賃の割にはやけに重い玄関のドアを閉めて、麻衣子は祐樹のもとを去っていったのだった。  最後に祐樹が目にしたのは、麻衣子の顔でなく、彼女の鞄からはみ出た茶封筒の端だ。その中には、二人がそれぞれサインをした離婚届が収まっていることを、祐樹は知っていた。役所にそれを提出するのは、麻衣子がすると言って譲らなかったのだ。  もはや悲しみや寂しさを通り越し、どこか他人事のように感じながら、二人の結婚生活は名実ともに終わりを告げた。  それが、ついさっきの出来事だ。 ::::::::::  麻衣子は、家に残していったものは好きにして構わないと言っていた。とはいえ、たいしたものは残っていない。せいぜい、窓際で咲く花くらいなものである。麻衣子は出会った頃から花が好きで、季節ごとに、種類の違う色とりどりの花を育てていた。思い返すと、最近は白い花ばかりを好んで育てていたな……と思いつつ、祐樹は立ち上がり、花瓶の方に歩いていく。  花の種類などちっともわからなかったが、全てが空っぽになってしまった今、かつては永遠を誓いあった女性が残していったモノだ。せいぜいできるだけ長くその花を咲かせていられるように、世話くらいはしてやらなければならないと思った。こんな時まで真面目ぶってしまう自分が嫌になったが、その前に、この花はなんという花なのだろうかと、ふと気になった。考えたら、祐樹が気にしていたのは、花瓶の水に堂々と茎を沈めているその花の色くらいなもので、種類には全くと言っていいほど興味がなかった。  ポケットからスマートフォンを取り出した祐樹は、白い花の写真を一枚撮ると、画像から検索ができるアプリにその写真を放り込む。すぐに検索結果が画面に現れる。  最後に麻衣子が残していったそれは、ゼラニウムの花だということがわかった。  そのまま「ゼラニウム 育て方」で検索をかけ、一番上に表示されたサイトを眺めてみる。土はどんなものがよいか、肥料は、水の量は、置く場所は……と、懇切丁寧に説明が書かれていた。このゼラニウムの花に限らず、麻衣子は日々いろいろなことを気にしながら花の世話をしてきたに違いない。そう思うと、自分は何もできなかったばかりか、そのことに背くことさえもしてきた。今更そんな背徳感を覚えた祐樹は、一度スマートフォンを置いて、頭を掻いた。 ::::::::::  春夏秋冬が毎年規則正しく巡ってくるのと同じように、会社にも毎年、新入社員が入社してくる。祐樹は麻衣子のときと同様に、昨年入った新入社員の教育担当にあてがわれた。大学を出たての女性新入社員の相手は麻衣子以来だったが、祐樹はその時と変わらず、丁寧にOJTをこなした。  これも仕事の一環として……と、まんざらでもない様子のその新人と飲みに出かけたのが、祐樹のそれまでの潔白な身に黒い染みを落とすことになったきっかけだったように思う。仲良くなったことまでは百歩譲られたとしても、その場の流れで数度だけ身体の関係を持ったことまでを、他人が弁護できる理由はなかった。  結局はそれ以上深い関係になることもなかったし、お互いに好き合うことまでには至らないまま、OJTが終わると同時に、なんとなく二人の関係も下火になっていった。それでも、時折メッセージが届いたりもするが、祐樹は最近それをのらりくらりとかわし続けていた。これ以上のめり込むと取り返しがつかない、というブレーキも当然働かせている。会う時にはもちろん誰にもバレないようにしたが、秘密は自分以外の誰にも知られないことで、初めて秘密となる。それを共有する他の誰かができた時点で、秘密が漏れる可能性はゼロではなくなることも理解していた。  ただ、そのことで誰かに噂話をされることもなく、今日までを過ごしてきたから、祐樹もやがてそんなこともあったと述懐する日が来ると思っていた。まさかこんなにも早く罪悪感に苛まれる日が来るとは、とこみ上げる気持ちの悪さに、頭がくらくらする。  その原因は、ゼラニウムの花から香る青臭いにおいとは、また別の種類のものだということは明らかだった。  けれどもそれ以上、別の言葉を探すことができなかった。 ::::::::::  気を取り直して、祐樹はふたたびスマートフォンを取り上げ、ページをスクロールしていく。最後の方は育て方というよりも、ゼラニウムの花にまつわる記念日や物語などの記述が主となっていった。ここでページを読むのをやめてしまうと、胸の奥でさらにじんわりと黒いものが広がる……と思った祐樹は、画面を撫でる指を止めずに、読み進めてゆく。  ページは最後の最後で、花言葉の項目に行き当たる。ゼラニウム全般の花言葉は「尊敬」や「信頼」、そして「真の友情」とある。花言葉なんて誰がなんの根拠を以てつけたのかはわからないが、なるほどな……と思わされる妙な真実味があった。  麻衣子との間にあったのは、友情でなく、愛情だった。そこに尊敬があったかはわからないが、もともとは血の繋がらなかった相手と、ひとつ屋根の下で暮らす決心をしたその時は、麻衣子は自分に信頼の気持ちを持ってくれていたに違いなかった。  にもかかわらず、自分は麻衣子に何ができていただろうか。  甘くない頭痛が祐樹の顔を歪ませた。  更にページをスクロールすると、ご丁寧にも花の色ごとに分けられた花言葉が紹介されていた。雲の切れ間からわずかに差し込む光を浴びる白い花を横目に、祐樹はその白いゼラニウムの花言葉を探した。これ以上は、とどこかで咎める自分がいたが、それを見ないことにはこの頭痛は鎮まりそうもないと思ったのも事実だ。 「白いゼラニウムの花言葉」の項目に辿り着いたとき、急に祐樹の背筋が凍った。 「私はあなたの愛を信じない」。 >>>>>2
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