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「散歩はいかがでしたか?」
柔らかな聲はマスクにくぐもり、部屋の鍵を渡してくれたしなやかな指は白い手袋で無残に覆われていた。
それでも瞳には明るい色が宿り、白いマスクもその下の微笑は隠せない。
「もうすぐ月が出ます。満月の森はきれいですよ」
フロントクラークだから、というより、生まれつき感じの良い女性なのだろう。
わたしは礼を言い、ロビーを横切り、階段を上った。
三階の廊下は昏かった。灯りのスイッチはどこかわからない。
ライト代わりにしようにも携帯は、部屋に置いたままだ。
フロント・デスクに戻って、灯りをつけてもらおうか。
それには及ばない。わたしの泊まっている部屋は廊下の突き当りの右側だ。壁伝いに少し歩けばたどり着ける。
落とし穴をさぐるように一歩ずつ進んだ。蛇がつま先を過ぎっても気づかないような昏さだ。
疫病のせいか、森の奥のホテルは、ほんとうに静かだ。
どこかで、鳥が啼いた。サン・サーンスの「死の舞踏」。死神が弾くヴァイオリンの不協和音が聞こえてきそうだ。
顔を上げると、廊下の突き当りに動きが見えた。窓を覆うように茂った枝の間から、月の光が差しこみ始めたのだ。
女の姿が、おぼろに見えた。白いブラウス、黒いコットンパンツ。同じ側の壁に手を這わせ、わたしに向かって歩いてくる。
なんだ、鏡じゃないか。
闇に怯えた自分を嘲笑い、壁から手離しすとわたしは真っ直ぐ歩いた。
鏡の女もわたしを真似て、真っ直ぐ歩いてくる。
自分の部屋のノブに鍵を差し、鏡を振りかえると、鏡の女もわたしを見た。薄明かりのせいか、鏡のなかのわたしは動きが鈍い。
変だ。
手を伸ばし、鏡面で右手を合わせた。
冷たい。だけど、鏡の冷たさではなかった。
手のひらの熱が奪われてゆく。凍るようだった。
あまりの冷たさに手を引いたとき、女が嘲笑った。
声をたてずに、わたしを嘲った。
ちがう。これは鏡じゃない。これはわたしじゃない。
悲鳴を圧し殺しながら、ドアの鍵を回した。
何度捻っても鍵が開かない。
……鏡から女が出てくる。
……わたしの背中に触れる。
……あの凍りつくような手。
ドアが開かない。
わたしが大声を上げそうになった一瞬、天井の灯りが点り、廊下に光があふれた。
「どうしました?」
いつからいたのだろう。
その男は手を伸ばせば届くところに立っていた。
長く、黒いまっすぐな髪、夜露のように燿る黒い眼、鴉より黒いジャケット、深い緑のシャツ。
ホテルのスタッフでない。それはひと目でわかった。
わたしは、小さく声をたてた。
「なにがあったんです?」
「そこの鏡に…」
「鏡?どこにあるんです?」
突き当りに鏡はなかった。破片すら落ちていない。
あの女はどこ?鏡はどこ?
「あったのよ、鏡が!」
「夢を見たんですよ」
男の声は低く、不安を駆りたて、嘲るような響きがあった。
「あったのよ」
「なかった、と思ったほうがご自分のためですよ」
どういう意味なのか。訊き直そうとすると、足早に階段を上る跫音が響いた。
「お困りですか?」
よかった。フロントクラークの彼女だ。
鎧のようにかっちりした黒い制服に、マスクがまばゆく白い。
速足で近づいてくる。
「お声が階下まで届きました。
廊下での電話はご遠慮いただきたいのですが」
「電話じゃありません。このひとと話してただけです」
「どなたとですか?」
「え」
何度見回しても男の姿はなかった。
「今夜、この階をご利用いただいてるのはお客様だけです」
「いたのよ!見たでしょ!」
わたしが鏡の女と黒い男の話をすると、マスクの上で彼女の眼がいやな燿りを帯びた。
「また出たのか、あのふたり」
マスクにくぐもった声は限りなく苦々しい。
「…また…出た?」
「喰ってから、四年たつというのに」
「え」
わたしには彼女の言葉を理解する時間はなかった。
マスクを捨てた彼女が、素顔を晒したからだ。
END
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