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◇◇◇◇◇
「なんなんすかね、あの息子」
車に乗り、大通りに出ても、九石の顔はまだ熱かった。
「あれもやだこれもやだと、自分の親のことを一体何だと思ってるんだ」
「……それは、あれだ」
真木はいつもどおりヘラヘラ笑いながら、煙草を取り出している。
「親だからだろ」
とんちんかんなことを言う。
「俺は親なのにって言ったんすよ」
「だから、親だからだろって言ったんだよ」
一本咥えて火をつける。
「お前、お袋さんは亡くなったって聞いたけど、親父さんは?」
「一応健在です」
「どんな親父さん?」
「どんなってーーー。普通ですよ」
平静を装って言葉を続ける。
「適当で、ヘラヘラしてて、掴み所ないくせに、女にモテるっていう。あ、真木さんに似てます」
「どう意味だこら」
言いながら白い煙を吐き出す。
「お前のヨチヨチ歩きを支えてくれた人が、歩けなくなる。
お前に箸の使い方を教えてくれた人が、スプーンも握れなくなる。
お前の言葉を、思考を司った人が、言葉もわからなくなる。
少しずつだが確実に人間じゃなくなっていく。
この空しさはきっと当人じゃなきゃわからない」
言いながらいつものように窓を少し開ける。
「俺たち介護に携わる人間は、利用者と家族を同時に考える必要がある。どちらかが不幸なら、イコールでどちらも不幸なんだよ」
「それにしたってあの息子は…」
「気がついたか?佳子さんの寝室。オイルヒーターが置いてあったし、枕元に濡れタオルが干してあった」
「だからなんすか」
「あの息子、言うほどひどくねーよ。ちゃんとお母さんのこと考えてる」
「それはそうかも知れないすけど…」
「けど何だ?」
ーーあんたは悔しくないんすか?あんなこと言われて。
三度くらいしか吸い込んでいない煙草を灰皿にしまうと、足を立てるいつもの体勢になったまま真木は笑った。
「でもお前が感情的になったの初めて見たよ。新鮮だったなー。すげー顔で息子さん睨むんだもん。あんなおっかねぇ自己紹介、俺は見たことないね」
「そんな顔してましたか」
「してたよ。怒ったりしないだろ、普段。ある意味ポーカーフェイスだよな。真面目なのに、俺が仕事押し付けてもサボってもふざけてても、何でもない顔してさ」
「そんなことないです。内心ムカついてました」
「マジかよ。こえーな。言えよ」
ケラケラ笑いながら体育座りのように足に手を組んでいる。
「まあいーけど。利用者家族なんていろいろだよ。もっともっとひどい奴もいる。近いうちに俺のワーストスリーに間違いなくエントリーするやつに当たるよ。ケアマネから特殊寝台の要望あったから」
そこまで言って、真木が斜め後ろを振り返った。
「ここらへんよく警察いるから気を付けろよ。黄色でも信号停まれ」
アクセルに力をいれかけた足をブレーキに落とす。信号が赤に変わる。
「たく、とろいな。ここの信号捕まると長いんだよ」
「だってあなたが……!」
「はは。冗談」
言いながらフロントガラスから空を見上げる。
「おい、見ろよ。今宵も満月だぞ」
九石もつられて見上げる。そこにはやっと見えるか見えないかの細い月が出ていた。
「俺、乱視なんだよ」
真木が目を擦る。
「あ、俺もです」
九石は目を細める。
「月が7個くらいに見える」
「同じです。切った後の爪みたいですよね」
「……汚ねーな、おい」
二人で声をあげて笑う。
真木が自分と同じものを見て、こんなに近くで笑っている。
九石は胸のそこにあるその熱を、もう無視できなくなっていた。
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