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◇◇◇◇◇ その日は午後に2件、急な死亡引上げが入り、珍しく休憩もなくトキ子の家に着いたのは6時過ぎだった。 「やべーな」 車載時計を見ながら、真木が珍しく焦っている。 前の現場からトキ子には電話で今日の訪問を確認していた。 「遅くに悪いねー。うちは何時でも大丈夫だから。気いつけてきてね」 とトキ子は笑っていたが、真木は珍しく焦っている。 「トキ子さん何時でもいいって言ってたんでしょう?」 「そっちじゃねーよ。その後!」 「予定ずらせないんですか」 「いや、どうやって一市民が番組のタイムスケジュールずらせるんだよ」 あくまで“見たい番組”を貫き通す気らしい。 ーー誰と会うのだろうか。何をするのだろうか。 胸の奥がざわついてしかたがない。 一人暮らしのその平屋の家からは、温かい灯りが漏れていた。 「トキ子さーん」 呼び鈴を鳴らしながら大声を出す。 「おーい?」 だが奥からは声どころか物音一つ聞こえない。 廊下も居間も明かりがついているが。 「トイレ、ですかね。ちょっと時間置いてから来まーーー」 「トキ子さーん!」 九石の言葉を遮って、一際大きい声で真木が叫ぶ。反応がない。 「……邪魔するよ」 長靴を乱暴に脱ぎ捨て、ドタドタと廊下を走っていく。 居間の障子を開けた途端、 「トキ子さん!」 真木が叫んだ。 慌てて中に続くと、すえた匂いが充満していた。 座敷を汚した吐瀉物の上に、トキ子が倒れていた。 ドク ドク ドク ドク 自分の心臓が喉元で鳴っている。 ーーー死んでる……のか? 「九石。救急車」 言いながら真木がトキ子を仰向けにする。 几帳面に留められたブラウスのボタンを次々に外し、下着までいくと背中に手を回し、ブラジャーのホックを外す。 顎を持ち上げてそらし、テーブルの上から布巾をとり、汚れた口の回りを拭う。 呆けている場合じゃない。 救急車。 救急車? ひゃくとーばん? あれ、それは警察か。 電話。 携帯電話はどこにある?? 「救急車は119だ。電話は借りろ。テレビの横」 真木の落ち着いた声で我に返る。 テレビ脇の電話を手に取り119を押す。 「火事ですか?救急ですか?」 低い女性の声がすぐ本題に入る。 「救急です。女性が倒れています」 真木は顎を持ち上げて頭を反らせる。 「意識なし。呼吸なし」 真木の言葉をそのまま電話で伝える。 「住所を教えてください」 握りしめていた指示書の住所を読み上げる。 「向かっています。心臓マッサージのやり方はわかりますか」 「真木さん、心臓マッサージのやり方って……」 「知ってる」 「あ、大丈夫です」 「数分で到着します。救急車のサイレンが聞こえたら道路に出てきてください」 「わかりました」 電話は切れた。 鼻をつまみ、口を大きく開けてトキ子さんの口をすっぽり覆うと思い切り息を吹き込む。トキ子の小さな胸が風船のごとく膨らむ。 ーーードラマやアニメで見る人工呼吸はまるでキスをするようにやるが、実際はこんなに口を開いてやるもんなんだな。 沸いた頭にどうでもいいことが浮かぶ。 真木は大きく2回、息を吹き込むと、今度は胸の中央に左手を当てて、それを右手で押さえながら肘を伸ばし心臓マッサージを始めた。 「フッフッフッフッフッ.」 息を吐きながらすごい強さで押している。 ボキッ バキッ 肋骨の折れている音が続くが、その力に迷いはない。 30回押すとまた口を口で覆う。 2回吹き込んでまた手を胸に当てる。 「ーー九石。救急車誘導してきてー。あと俺の携帯からケアマネの津川さんに電話してー」 緊迫した表情と、一切無駄のない動作とは対照的に間延びしたいつもの声を出す。 「……はい!」 九石は慌てて携帯電話を受けとると立ち上がった。
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