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ほどなくしてクリッパーが乗降場に停車した。
「歩けるかー。生まれたての小鹿ちゃん」
支えてもらいながら何とか助手席に転がり込むと、勢いで真木も上に転がった。
「あー、重いわー。お前無駄に身長あっから」
「本当に、すみません」
「いーって。介護畑にいればさ、人の命の危機なんか、何回もお目にかかるけど、お前には刺激強すぎたよなー」
笑いながら時計を見る。
「あーあ。もう10時か」
少し寂しそうな目をして上体を起こす。
そういえば今夜は…。
「予定あったんすもんね」
「ってか、見たい番組がな」
甲斐甲斐しくシートベルトまで締めてくれる。
「何て番組ですか」
「何だっけな。忘れた」
嘘だ。楽しみにしている番組名を忘れるか。
誰と会う予定だったんだよ。何をするつもりだったんだよ。
「それにしても」
くくくと笑っている。
「俺、腰が抜けた人間見たの初めてだわ。本当に抜けるんだな、腰って」
真木が笑いながら、九石の足に片手を付き、もう片方の手で腰を触ってくる。
「ーーーー」
「ーーーーおい」
「ーーーなんですか?」
「なんですか?じゃねぇの。痛いって」
気がつけば、その腕を掴んでいた。
厚いダウンコートの上からでもわかる細い手首。
こんな体であんなに力強く心臓マッサージを行ったのか。
「……九石?おい、九石ってば」
色素の薄い瞳が見開いている。
心臓が高鳴る。
まずい。ここまで来ると、いろいろと、まずい。
「さ、触らないで下さいよ。びっくりするんで」
やっとのことで絞り出した言葉は、動揺で震えていた。慌てて言葉を続ける。
「女の人にならボディタッチも嬉しいですけど、二人きりの車内で、しかも動けない状態で襲うのやめてください」
わざとらしいくらいに大げさに笑う。
いつもなら3倍くらいの憎まれ口を返してくる真木だったが、珍しく九石の顔を一瞥しただけで、体を離し、助手席のドアを閉めた。
ーーーやばい。怒らせたか?
運転席に真木が乗り込んでくる。
「さむっ」
言いながらシートベルトを締めるとキーを回し、発進させる。
「ツルッツルだな。路面」
話しかけてるのか独り言かわからないくらいのトーンで呟いている。
いつもどおりだ。気のせいだろうか。
人気のない大通りを、ひたすらに徐行しながら走らせる。いまだ喉元で鳴っている心臓を、熱い体を、どうしていいかわからずただ窓の外を眺めていた。
「じゃあ、気いつけてな。スケートリンクを運転してると思えよ」
いつのまにか車はシークロスの駐車場に入っていた。
慌ててシートベルトを外して降りようとする九石に、真木が続ける。
「ちなみにこういう路面でブレーキかけると、ABSが作動してタイヤの空回りを防ごうとするんだ。ブレーキを踏み返してくる感覚するけど、負けずに踏み続けるんだぞ。じゃないと滑って止まんないからな」
「あ、はい」
「ちなみには車1台につき10回しか効かない。ちゃんと数えながら使えよ」
「10回、ですか」
「そ。それ以上は交換だからな」
いつのまに吸っていたのか、煙草を携帯灰皿に押し付けながら、ハンドルに肘をついている。
何回、何十回と見てきたはずの姿に、どうしようもなく胸が高鳴る。
「お、お疲れ様でした……!」
逃げるように降りて、振り返らずに自家用車に走る。背後で真木のクリッパーが走り去る音がする。
どうしよう。どうしたらいいのだろう。
その音が聞こえなくなってからやっと振り返る。
……俺は、真木さんのことをーーー。
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