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老人ホーム、結の湖に到着するまで続いた。
「正吉さーん。元気かー?」
呼ばれた老人は目を細く開けて、小さく頷いた。
「おお。お嬢」
「はは。久しぶり。思ったより元気じゃん。顔色も悪くないし」
「そうか。今日はお嬢来るって言ったからよ。おめかししたんだ」
本当なのよ、といいながら介護士は笑った。
「いつもお風呂終わったら、髪の毛そのまま拭いて終わりだけど、今日は美しく七三だもんねー」
「だからか!」
真木も笑う。
「いつもにまして男前だと思った」
「だろ」
正吉はにこりともしないで、息だけで笑った。
「今日は、テーブル持ってきたんだよご飯食うとき、今度からこれで食べろよ?わざわざ食堂さ行くことねーからさ」
「わかった」
「では職員さん、書類手続きがあるので。向こうでいいですか」
介護士が頷くと、真木はクリアファイルを手に、九石に目配せをした。
「じゃあな、正吉さん。またな」
介護士と真木が隣室に移動する。手持ち無沙汰になり、テーブルから剥がしたビニルを寄せ集めていると、
「お前は誰だ」
正吉が上体を起こして九石を見ていた。
「あ、…ご挨拶が遅れました。シークロスの九石と言います。これから真木さんと共に回らせていただくことになりました。よろしくお願いーーー」
「俺のこと、どこまで聞いた?」
「ーーーどこまでと言うと、病状のこととかですか?」
「なんでも、よ」
末期がんのことを言っているのかと思いきや、どうやら違うらしい。
「ーーーいえ、何も」
「そうか。お嬢は口が固いんだなー」
昭一はため息をつく。
「俺は末期癌でよ。大腸に始まり、今は膀胱、前立腺、皮膚にまで転移してる。もう手術も抗がん剤もできない。モルヒネうちながら、ただ死を待つばかりよ」
何も言えずにただ頬の痩けた老人を見上げた。
「お前ぐらいの歳に、女房が子供つれて家を出た。女遊びが激しくて、愛想つかされたんだな」
当時を思い出しているのだろうか。正吉は目を細めて続けた。
「でも俺は、わからんかった。周りには友達も、仕事仲間も、女もいっぱいいたから」
こぼれ始めた涙を拭おうともせず、老人は続ける。
「わからんかった。自分で何も出来んようになるまで、俺は一人っきりなのをよ」
涙と鼻水でたちまち皺だらけの顔がぐちゃぐちゃになる。ベッド脇に置いてあるボックスティッシュから1枚引き抜き渡すと、それで豪快に鼻をかんだ。
「市役所の人が、頼んでもいねのに調べてくれてよ。市内さ、女房も娘も住んでるらしいんだけど、娘はもう結婚して子供もいるしよ。たとえ連絡しても会いになんて来ないからって、断ったんだ」
「そんなこと……」
「あんの!」
正吉はまた流れる涙を、今度は拭おうともせず、今日会ったばかりの九石の顔を睨んだ。
「このまま施設で一生を終えて、お骨も引き取り手がなくて共同墓地さ埋葬されんながなとか、今更ながら、別れた女房は元気かなとか、毎日考えている」
「連絡、してみればいいじゃないですか」
正吉は首を左右に振ると、いっそう低い声で続けた。
「俺の体はもう終わりだ。俺の人生も、もう終わりだ。階段を一歩、また一歩と下るように、毎日少しずつだが確実に、出来ることが少なくなっていく。ご飯が入らなくなっていく。起きている時間が少なくなっている」
皺の間から小さな目がこちらを真っ直ぐに見つめる。
「俺のことは俺が看取る。大事なものを蔑ろにした、愚かな男の一生を、自分で看取る。それが俺の最後の目標だ……」
その目がまた、きらりと光った。
「ーーー違うと思いますよ」
九石は確信を持って、言った。
「は?」
「本当にもう、諦めているんですか?」
「何を言っている?」
「本当は、初対面の俺みたいな若造に話すことで、万に一つでも奇跡が起こらないか、藁にもすがる思いで話してくれたんじゃないですか?」
「ーーーそんなことはない!これがお天道様の決めた人生だ。抗うつもりはない」
「お天道様の決めた人生ですか……」
九石は言いながら、勉強用にいつもポケットに入れてあるメモ帳を取り出した。
「なら、もう一度、お天道様に運命を託してみませんか?」
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