歯磨き粉

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歯磨き粉

スーパーの帰り道、重い袋が容赦無くチカコの手に食い込む。みるみる赤く変色する腕と痛みに耐えながら、ようやく着いた我が家のマンション。丁度エレベーターが来ていたので、チカコは乗せて貰おうとダッシュした。 「すいません! 乗せて下さい!」 飛び乗って、息切れが少し治まった後にお礼を言おうと顔を上げた時だった。“開”のボタンを押して待っていてくれたのはスーパーの紳士だった。 「何階ですか?」 真っ白な歯が爽やかさを2倍3倍にしている紳士に見惚れていたチカコは思わず紳士の奥歯に視線を向けて、硬直した。 「あの?」 紳士が顔を傾げて来たので、チカコは失礼にあたる事を覚悟で「それ」と小さく指さした。そして、案の定、紳士は青冷めた表情をして口を覆った。 「すみません、不快ですよね。降りますね!」 「待って下さい! 私も何です!」 チカコはスーパーの袋をエレベーターの床に置いて上唇をグイっと持ち上げて奥歯の赤い線を見せた。それを見た紳士は驚いた顔をした。 二人は一緒のエレベーターに乗った。 「重そうですね。僕が持ちますね」 「え? いや、そんな悪いですよ」 「構いませんよ。それにもう、持ってますから」 紳士はそう言って、床の上に置かれたスーパーの袋を持ち上げて、階数ボタンを押下した。 「何階ですか?」 「あ、同じなので大丈夫です」 「そうですか」 エレベーターが昇る中で二人は少しずつ会話をした。 「僕、黒猫を飼ってるんですよ」 「そうなんですか? 私は白猫を飼ってるんです」 「本当ですか? 僕達凄く似てますね」 そんな他愛もない会話をしながらも本当に二人はそっくりだった。紳士も生まれつき、奥歯にピンクの様なぬめりがあったと言う。同じように歯医者に行ったが良くならず、つい最近ネット広告で知った歯磨き粉を買ったらしい。それを使った途端、ピンクぬめりは無くなり、代わりに赤い線が出来たと言う。 「僕は、この歯の所為でずっと自信がありませんでした。人と話す時も見られない様にするのが大変で億劫だったんです」 「分かります。私もそうでした」 「でも、営業に配属されてこのままじゃマズイと思っていた矢先にあの歯磨き粉に出会ったんです」 「私も、ずっとどうにかしたいと悩んでいた時にあの歯磨き粉に出会いました」 住んでいる階に到着したので、ずっと紳士に持って貰っていたスーパーの袋を受け取ろうとすると紳士は「僕もこちら側なので途中までお持ちします」と爽やかに言った。 「え?」 紳士が小さく驚いた声を漏らした。チカコが振り返り「どうしました?」と聞くと「僕の家も此処なんですが……」と困惑した表情を見せた。二人は混乱した。試しにお互いの家の鍵を見せると、同じ部屋番号が刻まれていた。確認の為にお互いの家の鍵を鍵穴に差してドアを開けた。すると内装と家具の配置を変えて現れる。お互いに嘘は言っていないことが証明されたが―― 「これは一体どういう事ですか?」 「判りません」 二人が困惑していると、家のドアがいきなり一人でに開いた。そしてそこにはローブを着た白猫と黒猫が二足歩行で宙に浮いていた。 「おかえりなさい、ご主人様」 人語を意とも容易く解するお互いの飼い猫に二人は驚き過ぎて硬直してしまった。そんな二人の前に今度はアラビア風の恰好をした占い師みたいな女性が登場した。 「ごめんなさいね~あんた達の事、間違って別々の時間軸に転生させちゃったのよ~」 取り合えず、その女性の話を聞くとどうやら二人は前世で恋人同士だったが 諸々の事情で結ばれずに生涯を終えてしまったらしいとの事だった。二人が飼っていた飼い猫は前世で一緒に暮らしていた飼い猫で、とても大切にしてくれたご主人達が不幸な最期を迎えてしまった事を哀しく思い、この女性基魔女に“来世では幸せになって欲しい”のだとお願いし、その見返りにこの魔女の使い魔になったらしい。 「だけど~私、同じ世界には転生させてあげられたんだけど~時間軸を間違えちゃってぇ~それで、あなた達の事をずっと探してたの!」 二人のあの歯のぬめりは魔女が転生の秘薬を二人に施した時に出た副作用であったらしく、そのお蔭で二人を見つけ出せたらしい。二匹の使い魔はお互いのご主人の時間軸が丁度かぶさるタイミングを魔女に教える為に飼い猫に扮していたらしい。 「つまり、あの歯磨き粉って……」 二人が顔を見合わせると魔女はニッコリと笑った。 「そうよ~あなた達に施した秘薬の副作用を消す為に私が作ったの~後、あの歯磨き粉を使えば、あなた達の時間軸を同じに出来るわ~」 だが、それには結構な時間が掛かるらしい。それまで、二人は魔法の歯磨き粉がもたらした“偶然”の時しか会えないらしい。 「どうして、定期縛りにしなかったの?」 「あら、そんなの無粋じゃない! それに、人の心は移り変るのが世の常でしょ?」 「いいえ! 僕の気持ちは変わりません!」 魔女が「あら、素敵」とウィンクした後、どうするのかは二人の自由だと言ってあっと言う間に姿を消した。 あれから3年経ったが、私達は無事に偶然を重ねている。同じ部屋に帰りながら、出迎えるのはそれぞれの飼い猫だ。ここ1年で重ねる偶然は増えてきている。あの魔法の歯磨き粉を使わなくても良くなった時、お互いの右手の指輪を左手に変えようと彼と話合った。
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