第六話 追いかけてくるもの。

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ここに駅が出来たのは三十年前。それまではバスが街道を狭そうに通っていた。 バス停から川の土手近くにある家までの15分ほどが私の帰り道だ。 これはその道で起きた、30年以上前、私が高校生の頃の話だ。 ウチはごく普通の家庭だった。父はセールスマン、母は専業主婦という一般的な家庭だ。 「そういうアルバイトはやめて」 母はごく当たり前のことを言っているかのように話してきた。 「もう面接してきた」 私はそう言うと、友達との約束を理由に、家から出て、自転車に乗った。 母は干渉しすぎるタイプだった。自分が姉妹だけの家で育ったせいか、危険なことはさせたがらなかった。 私のアルバイトは駅近くのスナックのボーイだった。時間は夜8時から12時まで。当時の喫茶店などのアルバイトは時給500円程度で、このスナックでは800円くれたのでかなりいいいい仕事だ。 「しんちゃん、こっちお願い」 そのスナックには年配のママと30代後半の女性、厨房には20代後半の男性がいた。 「はい」 私のやることは後片付け、洗い物、ちょっとした接客だ。その辺りはいわゆる飲み屋街で駅からの狭い路地にはいくつもの飲食店やスナックがあり、深夜まで路地には声が漏れていた。 その日は金曜日でお客さんが多かったせいか、帰りが少し遅くなり、二時近くになっていた。自転車で店まで来ていたので、三十分程度かけて帰る道のりだ。 コンビニなんかはまだあまりない時代だった。自転車での三十分は秋の終盤には寒い。 店を出るといつも小さな路地を左に曲がり、自動販売機を目指していた。暖かいコーヒーを買うためだ。 近づいていくと、人が自販売機に寄りかかっているのが見えた。自販売機に背中を付けて、座り込み、手には缶コーヒーを持ったまま寝こんでいる。 ベージュのコート、その下は普通のスーツ、靴は片方が脱げている。まあ、この飲み屋街にはよくある光景だ。 側まで行くと不愉快になった。 その男が寄りかかっているせいで、自販売機の取り出し口が開きそうにない。 「バカ野郎」 小さな声をその男に投げると、また自転車を漕ぎ出した。帰り道にどこかに自販売機はあるだろう、そう思い、ゆっくりと走り出した。 住宅街の細い路地を通っていく。この道は何度か通らないと覚えていれないような道で、駅までの近道だが、地元の人にもあまり知られていない。 二つ目の角を曲がったあたりで、ふと気がついた。 後ろから、自転車がついてくる。 シャーシャー とペダルを漕ぐ音が聞こえる。さっき角を曲がる時にはそんな気配が無かったので、どこかの家から出てきたのかと思ったが 違うことが頭に浮かんだ。 一つはさっきのサラリーマンの男が起きて自転車に乗り、バカ野郎っと言ったことに腹を立てて追いかけて来た もう一つは警官が夜中に自転車に乗る高校生の私を見つけて追ってきた だった。 私は自転車のスピードを上げ、やっと見つけた自販機も通り過ぎた。 シャーシャー それでもそれは一定の距離をおいてついてくる。 住宅街を抜けると町工場が多くある、少し広い道に出る。それでもこの時間では車すら通っていない。もちろん人は歩いていない。工場が多いこの辺りは、錆びた扉がある古い作業場や壊れて動かない車が放置されていることが風景を不気味にしていた。 シャーシャー それは私がどこへ向かっているかを知っているように、ついてくる。 ゾッとした。 さっきのやつか、警官か。 振り返る勇気はなかった。しかしこのままでは不味い。 よく考えれば、ただ私がそれの前を走っているだけかもしれない。うまくやり過ごすことが出来るかもしれない。 「様子を見よう」 そう思い、そこから数秒走り、思い切ってスピードを緩めた。 しかし、それはまだ同じ距離で シャーシャー というチェーンの音をさせてついてくる。 しばらくすると工場のある辺りを抜け、私鉄の高架下になる。そこには駅があり、交番がある。 「あそこまで行けば大丈夫」 私はまた少しスピードを上げて、走り出した。  だが、後ろから追ってくるものは明らかに私に合わせている。このままでは何か起こる。息が薄くなるほどハーハーと吐きながら、唾を何度も飲み込みながら、振り向くかどうかを考えていた。 シャーシャー それは後ろでゆっくりと音を立てている。 「交番の前で止ろう」 心の中でつぶやいた。 後ろのものが警官ならもう声をかけていていい頃だ。それにさっきの自販機の男が、あの状態から、ここまで冷静に自転車に乗ってこれるはずはない。それ以外の人間だ。 シャーシャー シャーシャー その辺りは少し上り坂になっているが、聞こえてくる音はずっと同じ調子で変わらない。 「あとちょっと」 そう思った瞬間、突然、その音が止んだ。 その辺りでは自転車が曲がって入る道などは無く、それが止まったのだと私は感じた。 そして、慎重に、ゆっくりとブレーキをかけた。街道に出た、歩道の信号の下で、前には電気の点いた交番があり、安心したのもあった。 思い切って後ろを振り返ろうとした、その時 目の前に細い灯りの線が入り、深緑の大きな物が半転して ガチャン という短い音を立てた。 慌ててそれをよく見ると、高架下の柱のあるフェンスに大型トラックが、その腹の部分を見せて横転している。 グーグー エンジンが鳴ったまま、フェンスに頭を突っ込んだままだ。 しばらくボッーと見ていたが、交番から慌てて出てきた警官を見て理解した。 それは私の目の前で起きた大事故だった。私があと数秒早くその交差点に入っていたら、間違いなく、そのトラックに飛ばされていただろう。 警官の一人がそのトラックの周りをウロウロしながら、肩のトランシーバーのような物で何かを話している。 すると、その警官は私に気づき、じっとこちらを見ている。 警官は左右を確認すると走って私の元に来た。そしてまた、後ろを振り返り、トランシーバーで話し始めた。 手の上げ下げし、このままここにいるようにと言っているようだった。トランシーバーの会話が終わると 「大丈夫か」 警官は青ざめた顔で私を見ている。その顔を見て、私は辺りを見廻した。 立っているすぐ後ろには折れて倒れた信号機が斜めになっている。目の前の横断歩道の白い線には真っ黒なタイヤの跡が半円を描くように付いている。 明らかにそのトラックは私の目の前でブレーキをかけ、ハンドルを切り誤り、そのまま高架下に突っ込んだのだ。 「大丈夫です」 小さな声で答えた。 その後はパトカーや消防車が何台も来て、静かで暗い、いつもの交差点は真っ赤ないくつも灯りで爛々としていた。 事故は運転手の居眠りが原因だったらしい。 あのまま、あの信号を通っていたら、間違いなく死んでいたと思った。
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