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N氏の怒りは頂点に達しようとしていた。
「もう、我慢ならん! どこだ、姿をあらわせ!」
白のタンクトップにトランクス1枚という出で立ちだが、その表情は何人も寄せ付けない鬼のような形相を放っている。
「この悪魔め!」
そうののしる彼の身体は、悲惨なことに傷つき打ちのめされていた。
男ながらに白くて滑らかな肌は真っ赤に染まり、そこらじゅうが腫れ上がっている。
顔もまた殴られたかのように膨らみ、目を隠すほど肥大した瞼がその姿を一層恐ろしくさせていた。
「灯りをつけたとたんに姿を隠しやがって。絶対に見つけて叩き殺してやる!」
N氏の住まいは、安物件のアパートである。
その昔、部屋で自殺した住人がいたため、破格の家賃で借りることができた。
とはいえ、今はそれどころではない。
N氏にとってはその安い家賃事情よりもはるかに重大な出来事が起こっているのだ。
彼の手には、長いホウキが握りしめられている。
他にも、武器になりそうな得物は部屋の中にいくつもあるのだが、怒り心頭している彼にとってはいっさい目に入らない。
「出てきやがれ!」
そう叫びながら、風呂場やトイレ、クローゼットの中と順番に覗いていく。
しかしN氏を執拗に攻撃し、追い詰めていった悪魔はいっこうに姿をあらわさない。
次第に、彼の顔にも焦りの表情が浮かんできた。
「くそ、このままやられっぱなしで終われるか……!」
机やベッドをひっくり返し、カーテンを開け放ち、部屋中を探す。
しかし、まるで忽然と姿を消したかのように、悪魔は姿を消していた。
「ぐは!!」
その時、N氏のふくらはぎに激痛が走った。
思わず倒れ込む。
「ぐ……」
いったい、何が起きたのか。
倒れながら足元を見ると、筋肉が異様に張っていた。
どうやら、足をツッてしまったらしい。
「ち、ちくしょうめ……」
足のつま先をぐいぐいと押しながら、N氏は顔を上げた。
するとそこには……。
「いた」
悪魔がいた。
ゆらゆらゆらゆらと、蛍光灯の明かりに照らされながら宙を漂っている。
真っ黒い身体に、細かく動く羽。
悪魔はN氏をあざ笑うかのように不気味な音を響かせていた。
「み、見つけたぞ。このやろう」
N氏はホウキを杖代わりに立ちあがると、悪魔めがけて思いきり振るった。
ホウキは風を斬りながら、部屋の中にいる悪魔に襲い掛かった。
予想だにしなかった攻撃に、悪魔は避けることができない。
バシン! という音とともに、ホウキは天井に叩きつけられた。
「やった、やっつけたぜ、こんちくしょー!」
歓喜に打ち震えるN氏。
喜び勇みながら彼がホウキを床に置くと、そこにはペシャンコになった“蚊”がくっついていた。
「ははは、思い知ったか、この悪魔め」
N氏はそうつぶやくと、その悪魔の死骸をつまみあげ、窓の外から捨てた。
「これで、ゆっくり眠れる……」
N氏の夏の夜は、毎年こうである。
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