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あくがるきみとぼく
「はてさて、ここで今一度意味を調べてみようか」
波打つ長い髪を翻して彼女は言った。
何処か妖艶なその微笑みに一瞬でも目を奪われてしまった自分を殴りたい。いや、殴りたくてもこの状況じゃ殴れないけど。
彼女が机の上に置いてあった電子辞書を開いて、ある言葉について調べ始める。
「おいこら、勝手に人の辞書を使うなよ」
「まあまあ、気にしない気にしない」
ぼくの文句を軽く受け流しながら、彼女が電子辞書をぼくの目の前に突き出してきた。
その文字の羅列をぼくは目で追う。そこにはこう記されていた。
かなしばり【金縛り】
①動くことができないように、厳重に縛り付けること。恐怖・驚き・霊力などで体が硬直して動かなくなることにもいう。
②金の力で自由を束縛すること。
「あ、わたしが調べたかったのはもちろん前者の方ね。霊的な力で体が動けなくなる意味の金縛り」
「金縛りか……。今まであったことはないな。確か、過労やストレスとかが原因だって前に新聞のコラムで読んだことはあるけど」
「もしかして、化学室前の廊下に貼ってあったやつ?」
「そう、それ」
「わたしもそれ読んだよ」
「そうなんだ」
「うん。なかなか面白いコラムだったよね」
「そう言うきみは金縛りにあったことあるの?」
「うん。何度かあるよ。真っ白な着物を着た女の人がすぅっと部屋に入って来る夢を見て、驚いて目を覚ましたら体が動かなくなっていたの」
「何それ、ガチ?」
「ガチだよガチ。いやー、本当に怖かったよー。睡眠麻痺だってわかっていてもね、腕は挙げられないし、指先も動かせないし、体も全く動かせないの。まあ、別に幽霊が見えたとかそういうことはなかったんだけどね」
「そうなんだ」
「でも、きみはまだマシな方だよ。わたしの時なんて、声すら出せなかったんだから」
あの時は本当に怖かったよ、と彼女はしみじみと呟いた。
「……それなら、ぼくの心中察してくれよ」
「察してはいるよ」
「だったら、好い加減解いてくんない?」
「うーん、どうしようかなー」
……こいつ、絶対楽しんでやがる。
悪戯っぽく笑う彼女を一発小突いてやりたかったが、ぼくは溜息を吐くことしかできなかった。
何故なら、体が全く動かないからだ。手を動かそうとしても無理。足を動かそうとしても無理。ぼくの意思に反して、体は少しも動いてはくれない。今のぼくにできることといえば、声を出すことだけだった。
詰まる所、ぼくは今、先程彼女が言っていた金縛りにあっていた。
この状態はぼくが目を覚ました時から続いている。体が動かないから近くに置いてある携帯端末を取ることもできないし、角度的に机の上の時計を見ることもできない。故に、この状態がどのくらい続いているのかもわからない。
尤も、その原因は目の前の彼女のせいだということをぼくはこれまでの経験から察していた。
「……今度は金縛りかよ」
「いやー、人間やろうと思えば何でもできるものだね」
ふふふ、と何処か誇らしげに彼女が笑う。
「今のきみの状態を普通の人間のカテゴリーに入れるのはどうかと思う」
「何言っているの。わたしはいたって普通の人間ですよ」
「……普通の人間はこんなこともそんなこともできないと思うんだけど」
そう、普通の人間は人を金縛りにするなんてことはできないし、ふわふわと宙に浮くなんてこともできない。手で触れることなく電子辞書を浮かせることもできない。でも、彼女はそれをできて当前のことのようにやってのけている。
何故、そんな芸当ができるのか。答えはいたって簡単。
何を隠そう目の前の少女は幽霊だからだ。
うちに幽霊がいます、なんて言ってもきっと誰も信じてくれないだろう。……いや、一人だけは信じてくれる、か。
彼女は幽霊だから体を宙に浮かせることもできるし、人を金縛りにすることもできる。物を宙に浮かせること――所謂ポルターガイストを起こすこともできるのだ。
その一方で、幽霊だけど何故か体は透けていないし、普通の人と同じように物を掴むことができる。現に先程まで宙に浮いていた電子辞書も今は彼女の手中にある。
でも、ぼくには触れることができないというのだからよくわからない。彼女自身もよくわからないというのだからぼくにわかるはずもない。
兎にも角にも今はただ、目の前でふわふわと浮かんでいる電子辞書がいつ顔面に落ちてくるかわからないという恐怖から解放されてほっと一安心しているところだ。
だが、まだ気は抜けない。ポルターガイストは終わっても、金縛りは続いているのだから。
ほんと、彼女からはいろんな意味で目が離せないなぁ……。
全く、起きて直ぐにこんな状態に陥るなんて何たる仕打ちだろうか――。
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