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〝辺境〟に移った私の家に、現代人ではない人たちもたくさん〝訪れる〟ようになった……いや、これは正しい表現ではない。
鍵のかかっているはずの部屋にいつのまにか現れたり、帰宅すると勝手にくつろいでいたりする。
しかし、私は別段それを騒ぎ立てもしない。慣れてしまったのもあるが、〝侵入者ではない〟ことがどういうわけかわかるからだ。
弥生時代だか古墳時代っぽい出で立ちの人物たちは、常に憤っている。「何をそんなに憤っているのか」と聞くと、急に落ち込こむ。――そして、そのまま消えてしまう。
僧侶や神官も現れるが、いつも同じ人物とは限らない。違う時代の人たちだというのが身に着けているもので推測される。僧侶かと思ったら神官だと答えた者もあるが、いずれも、神仏の慈悲と生命の尊厳について楽しそうに語る。――やや理屈っぽい玉に瑕(きず)だ。
時々、大昔のエジプト人やインド人みたいな人物もいるし、ヨーロッパの修道士みたいなのも来る。――こいつらは大体気難しい。
彼らと話すようになってつくづく考えるようになったのが、〝歴史の正体〟というものだ。
ある生物を研究する博士の話を聞く機会があった。
博士は、その生物のことならば何でも知りたいし、実際に、あらゆることを調べ尽くして知っていた。何百年も前、日本の特定の地域のみで、その生物は今では想像もつかないような名前で呼ばれていた。――質問が出た。
「かつてその生物はその地域にしかいなかったのですか?」
博士は答えた。その頃だって今のように日本全国にいたに違いない。記録が残っていないか、他の地域では違う名称であったから、記録されていても気づかないだけなのであろう――と。
ある生物の歴史とは、絶滅せずに〝生息している生物そのもの〟に他ならないと私は悟った。そうだとしたら、人間の歴史とは、〝生きている私たち自身〟に他ならない。――記録は、記録以上の何者でもない。
今日の私は、いつ、どこの〝私〟と共に話ができるのだろうか。
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