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1.プロローグ 出会い
声が聞こえた。
その音は私の耳に優しく馴染み、乾ききった心にしっとり沁み込んだ。突然もたらされた潤いに動揺し、混乱する。
***
そこかしこに灯るロウソクで贅沢に輝く広いホール、その壁際で楽団が演奏している。たくさんの人間が社交に精を出す声と、流れてくる音楽が耳から入り、頭の中で絡まり合って不協和音を奏でた。うるさく転がる音を意識の片隅に押しのけ、いとこのエーリッヒと一緒に主催者の男爵夫妻に挨拶をする。
「……ほ、ほ、ほ、ほ、本日は、ご招待いただき誠にありがとうございます。…………っブ、ブ、ブ、ブラント男爵領当主レオポルト・ブラントで、ございます」
「私は当主のいとこにあたります、エーリッヒ・ブラントでございます。当主の負担を減らすために自ら名乗る失礼をお許しください」
私の吃音のせいで緊張した雰囲気は、エーリッヒが淀みなく話すことで、安心したように緩む。
「当主は病のため、私に挨拶する栄誉をお与えくださいますか?」
エーリッヒがご婦人から差し出された手を取って挨拶するのを、私は手袋をしたまま見守る。他人と接触することに恐れを感じる私は、やまい持ちとして知られていた。
正確に言うなら、触れると震えや吐き気がこみ上げてしまう。青ざめた顔で震えながら挨拶するなど、失礼過ぎる真似をするわけにはいかないから、病と称して触れないようにしている。奇異の目で見られるが、手を口元まで運んで挨拶するよりずっとましだ。
私がどういう状態でも顔繋ぎは大事な仕事のため、主催者への挨拶がすめばエーリッヒと一緒にホールを歩き、挨拶して回る。
エーリッヒは男爵家の血筋でも序列外のため、身分は平民になる。初回の相手と話をするには、男爵という肩書を持つ私が必要だ。たとえ、突っ立っているだけだとしても。
私のつっかえた挨拶のあとで、話を引き継いだエーリッヒとの会話に移っていく。その隣に立ち、ときおり頷いていればいい。私に話かける人物はいないし、私から話かけることもない。
あらかたの挨拶を終えてエーリッヒだけで充分になれば、私は楽団のそばへ行き楽器の音に耳を澄ます。他人の声が苦手な私にとって、その音色は救いだった。
私の耳は他人の声を敏感に拾っては、不快な音に変えてしまう。ざらついた響きで話す男性、耳に突き刺さるような尖った声で笑うご婦人方、噂話をやり取りしているヌルリとした小声。聞こえてしまう声の音や響きが、頭痛や気持ち悪さ、チリチリするような痛みなどを私の体に引き起こした。
平気な声もときにはあるが、人数が多いとどうしても不快な音が多くなる。
幼いころから他人の声に敏感で、不快さに耐えられず耳を塞いでうずくまることが多々あった。そんな日は、自分の中に不快な音の欠片がいつまでも残っている気がして、母に助けを求める。歌姫と称された母の声は春の優しいそよ風のように、私の中に残った不快な音を穏やかに吹き消してくれた。
ずっと声を聞いていたかった母は、私が12のときに落ち葉がカサカサ鳴るような声で息を引き取った。助けがなくなった私は不快な音の残滓に神経を削り取られ、何年も不安定に過ごした。今は立ち直っているが、我慢できるようになっただけで性質は変わっていない。
父が亡くなり当主を継いでなんとかやっているが、声に怯え、触れることに怯える自分のままならない性質に倦み疲れている。唯一の安らぎは自然に耳を澄ませること。不快な音がいつまでも消えないときは、もう使われていない森の猟師番の小屋で、一人きりで過ごす。森の音しかしない、他人の声が聞こえてこない場所は、私の気持ちを穏やかにした。
一番落ち着くのは静かな雨音。すべてを包み込むようなしっとりした音は、私へ染みこみ心を潤す。静かな雨の日は外へ行き、ずっと音を聴いている。私を包み抱いてくれる音を。
***
「ねえ、庭師さん? 肥料持ってきたってお使いの子が来てるんだけど、どこに運んだらいいの? お使いの子も、私も置き場所知らないのよ」
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