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4.自己紹介
彼女が掃除を終えて出ていった狭い仕事部屋に、声の余韻が漂っているような気がする。安心するのに、なぜか切なくて胸が締め付けられた。
彼女の声が耳の奥で響いている。体の底を流れる水のように馴染む彼女の声を、すべてを包むような静かな雨に似た音をもっと聴いていたかった。母のように耳に馴染むのに、全然違う。母の声は不快なものを吹き消して、私の中を通り抜けていく。彼女の声は私に染み込み、得も言われぬ陶酔が体中に満ちた。
嬉しかった。私の存在を受け入れて話してくれることが。
猫と同じくらいの扱いでも、私を認識して気にすることなく私に声をかけてくれた。つっかえても気にせず、何でもないことのように返事をしてくれた。
ベッドの中で目をつむり、彼女の声を何度も反芻する。私を見た茶色い目を思い出した。猫にも同じように喋る姿を想像して、笑いがもれる。もっとよく思い出そうとして、彼女の髪や顔が思い出せないことに気が付き、ため息が出た。
またやってしまった。見ていたのに思い出せない。声を聞けたことに浮かれて、注視するのを忘れていた。
それに名前も聞いていない。雨にけぶる朝のような声で歌う彼女の名前を知りたかった。
また明日も会えるだろうか?
目が覚めて耳に残る声を思い出し、胸が締め付けられた。
あの不思議に楽しい時間は昨日だけの話で、もう2度と味わえないような気がした。今日も彼女が来て、話をしてくれるだろうか? 今日になれば雪のようにとけてなくなる、なんだか都合のいい夢を見ていた気がする。
心が沈んでいく。でも、仕方がない。私は話せないし、ただオドオド頷いていただけなのだから。
それでも微かな期待捨てられない。願いを胸に、昨日より早い時間から部屋で彼女がくるのを待った。
軽やかな足音が扉の前でとまり、軽快なノックの音が響く。鼓動が早まり、つばを飲み込んで返事をした。
「……ど、ど、どうぞ」
「失礼します。掃除に来ました」
彼女が静かに入ってきて私に微笑んだ。その親し気に見える笑みで、昨日のやり取りは夢ではなく、憐れまれてもいないのだと思え、喜びで頬が熱くなる。
笑いかける彼女の周りはくっきりと明るく見えて、なんだか気持ちが励まされた。今だったら、名前を聞いても大丈夫な気がする。
「おはよう書生さん、今日も会ったわね。いつもここでお仕事をしてるの?」
「あ、ああ。……な、な、名前を」
「名前? 私、スージーよ」
「…………っス、ス……」
軽やかに答えてもらえた嬉しさで頭が沸騰し、言葉が出てこない。彼女の名前を呼びたいのに焦れば焦るほど、舌が引き攣ったように動かなかった。
「スー、でいいわよ。弟たちにもそう呼ばれてるし」
「ス、スー」
「そうそう。書生さんのお名前は?」
「レ、レ、レオ、……」
「レオね、わかった。レオって、呼んでいいの?」
「い、いい、スー」
「ふふふ、弟みたい。でもレオのほうが私より年上よね? レオは兄弟いるの? 私なんて、弟ばっかり3人もいんのよ。どうせなら可愛い妹が欲しかったわ。女同士だとお喋りもはずむじゃない? それに、弟の世話を私1人でみるの大変なんだもの」
「い、いも」
「妹さん? 何人?」
「ひとり」
書棚にハタキをかけながら、どんどん進むスージーの話に私への質問が入ると舞い上がってしまう。私を会話の相手として見てくれていることが嬉しい。
『スー』と呼んでいいと言ってくれたのだから、私を『レオ』と呼んでくれたのだから、親しみを抱いてくれているのかもしれない。
気持ちが浮き立ち、私からも何か話したくなった。スージーともっと会話をしたい。
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